男性のせい、ばかりではない

この連載はコミュニケーション・ディレクター佐藤尚之さんによる「男性の生活面での自立」を提案するものです。生活の多くを妻やパートナーに依存し続けていれば、人生100年時代の今、やがては「自分のことが自分でできない高齢男性」という、社会問題の要因の一つにもなりかねない、と。とはいえ、そもそもそんな視点で自分を顧みたこともない男性読者(女性も)には、うすうす気づいていた問題を文字であらわされたことに少なからず驚いた方も多いでしょう。「でも、それって、俺のせいなのか?」。戸惑う男性諸氏に向けた今回の原稿、ぜひじっくりご一読ください。

佐藤尚之(さとう なおゆき)さん
コミュニケーション・ディレクター。1961年東京生まれ。著書に「ファンベース」(ちくま新書)、「明日の広告」(アスキー新書)など。また“さとなお”の名前で「うまひゃひゃさぬきうどん」(光文社文庫)、「沖縄やぎ地獄」(角川文庫)、「沖縄上手な旅ごはん」(文藝春秋)、「極楽おいしい二泊三日」(文藝春秋)などがある。
2018年にアニサキスアレルギーになって外食や旅に行けなくなり生活がガラリと変わる。一汁一菜を毎日作ってインスタグラムにアップもしている。
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撮影/原 幹和(佐藤さん)

男は男で必死に昭和な価値観に合わせて生きてきた

さて、年末年始を挟んで、連載第4回目である。

第1回はいわゆる「宣言編」

ボク自身が「あれ? もしかしてオレ、いい歳こいて自立してなかった?」と気付いた話や、「男性が自立していないこと」が社会の根っこで大きな弊害になっているのではないか、という問題提起を行った。たくさんの方に読んでいただいたようでとてもうれしいです。まだの方はぜひお読みください。

「ジリメンのススメ vol.1 もしかしてオレ、自立してなかった⁉」
https://www.wellbeing100.jp/posts/5191


第2回第3回は、浜田敬子さんをお招きしての対談。
「ジリメンは社会問題を解決する」というテーマで、女性からの視点をたくさんお教えいただいた(前後編)。
いやぁ発見がたくさんあったなぁ。女性読者は首がもげるくらい頷かれただろうし、男性読者は「やばい、まずい」とお尻を叩かれた方も多かったのではないだろうか。とても面白い対談に仕上がっていると思うので、これもぜひ。

【浜田敬子さんとの対談「ジリメン」は社会問題を解決する

前編https://www.wellbeing100.jp/posts/5312
後編https://www.wellbeing100.jp/posts/5545

ということで、第4回である。

自分で書いておきながら、ここまでを読み返してかなり胸が痛かった。
もちろん「ちゃんと自立できていない情けなさ」に胸が痛いのもあるし、女性の社会進出などを妨げているなぁと申し訳なくも思うのだが、「とはいえ、なんだか男性に対して厳しすぎないか?」とも思うのだ。そう、自分で書いておきながら。

そして、男性側にもいろいろ「言い分」や「言い訳」はある、ということもよくわかってる。

確かに生活的自立は遅れたかもしれないけど、家庭のために身を粉にして働いてきたからという部分もあるし、男性は男性で「昭和な価値観」に合わせて長年生きてこざるを得なかった部分も大きいのだ。

ということで、今回は男性擁護編である。

特に女性陣に「男性の立場を知ってほしい」と思っている。一方的に責めないでほしいし、いいトシしてからの「自立」を温かい目で見てほしいし、初めての家事での試行錯誤や失敗を半年くらいは大目に見てほしい。
そして、若い男性や女性にも知ってほしい。個人の努力だけではどうしようもできない現実が過去にはあったのだ。


そう、昭和男子だってラクチンに生きてきたわけではない。
イケイケドンドンな高度成長期のマッチョな階級社会で、昭和の価値観ド真ん中世代の両親や上司たちの「いまより圧倒的に厳しい価値観の押しつけ」の中を生き抜いてきたのである(そういう古い価値観の多くが社会的に女性を隅に追いやったのは確かなのだけど)。

当時は今より上下関係が厳しかった。というか絶対的だった。
なにしろ厳しい家では「親に三つ指ついて挨拶する」なんてこともあったくらいだ。上司へのお中元・お歳暮は常識で、新年にはお宅にわざわざご挨拶に行ったりする人もいた。そういう価値観が日常に普通にあり、「上の世代の価値観は厳しく下に申し送られてきた」のである。

そして声を大にして言いたいのは「全員が全員、そういうマッチョな価値観に好き好んで染まってきたわけではない」ということだ。おかしいなと思っても、家で厳しくそう躾けられてきた。学校でも会社でもそういう価値観を強く押しつけられてきた。仕方ない部分も大きかったと思うのだ。

もちろん疑ったり反抗したりした人もいただろう。
でも社会全体がそういう空気だった。「こういうものなのか」とその価値観に自分を合わせ、生きてこざるを得なかった。

いろいろな要因があるとは思うけど、以下、ボクなりにちょっと整理してみた。

【両親】昭和な価値観での躾けが厳しかった

【学校】学校でも家事を教えてくれなかった

【仕事】長時間労働に夜のつきあい、内助の功

【結婚】女性の価値観もどっぷり昭和だった

【目標】武将も偉人もヒーローも、誰も家事をしなかった

【憧憬】家庭を顧みない無頼や破滅が憧れられてきた

【日常】コンテンツ制作者のほとんどが男性だった

うわ、書き出してみたらたくさんあるな。
それぞれ簡単に触れていきたいと思う。
ちなみに、もちろん「個人差や家庭差」などはある。あくまでも一般論としてお読みください。

【両親】昭和な価値観での躾けが厳しかった

ひとつめは「躾(しつ)け」である。
もちろん個人差・家庭差はあるが、そう躾けられてきちゃったのは大きいと思う。

ちょっと次の言葉たちを読んでみてほしい。これらはボクたち男性が、個人差こそあれ、幼いときからずっとかけられてきた「呪いの言葉」である。

「男のくせに」「男たるもの」「男は泣くな」「男だろ、しっかりしろ」「男は弱音を吐くな」「男が細かいこと気にするな」「男なら喧嘩に負けるな」「男の意地を見せろ」「男は一家の大黒柱になれ」「家は男の城」「男子厨房に入らず」


いやぁ、強い呪いだなぁ。
特に「男のくせに」はクセモノだ。精神的マッチョな男性(父、祖父、先輩、上司)からふんだんに振りかけられてきた。

「男のくせに家事なんてみっともない」「男のくせに女々しいことを言うな」「男のくせに酒も飲めないのか」「男のくせに几帳面だな」「男のくせにいちいち細かいことに口出すな」
・・・なんとマッチョな時代であることか。というか、幼い頃からいろいろ背負わされてきたんだなぁ、と。

【学校】学校でも家事を教えてくれなかった

これは連載第1回で書いたのでくわしくは書かないが、「家庭科」が中学校で男女必修になったのは1993年なのである。つまり1980年生まれ(いま44〜45歳)以降は中1から習っているが、それ以前生まれの男性は「技術」を習っていたことになる(学校や地域によって多少の違いはある)。

もちろん「学校で習ってなくても家事やってるよ」という男性はいるだろう。でも全国一律で全員が習っていた時代と、全員が習っていない時代とではやはり「社会の空気」が違うと思う。上で書いたような「呪いの言葉」が容易に吐かれてしまう空気が醸成され続ける。

この「家庭科1993年から男女必修問題」は意外と根深く男性の中でのジェンダー意識に影響を及ぼしているとボクは思う。

【仕事】長時間労働や夜のつきあい、内助の功

昭和男子が会社に入って直面するのが長時間労働と夜のつきあいだ。
なにしろ「24時間戦えますか?」の時代である。長時間労働や残業など当たり前だったし、毎晩のように「夜のつきあい」があった。

女性からすると、特に「夜のつきあい」なんて単に飲みに行っていただけでしょ、楽しかったでしょ、と思われるかもしれないが、でも、楽しいどころか「しんどいだけの仕事上の接待」も山ほどあった。いまとは時代が違って、本当に接待が激しかった。それはわかってほしいところである。

社内でも上司の誘いはなかなか断れなかった
いまの若者は想像つかないかもしれないけど、上司より先に帰るなんてあり得なかったし、上司から「ちょっと一杯、どう?」とか誘われたら断れなかったのだ。

え? 友人や恋人との先約はどうするのって?
うん、メールもLINEもなかった時代なのだ。いまでは信じられないけど、みんな夕方に「今日どう?」とか、友人と電話とかで約束してたのだ。夜の予定なんて決まっていないことも多かった。というか「上司にいつ誘われてもいいように夜の予定をなるべく入れない」なんて男性もまぁまぁいた。だって上司に「え? 先約? そんなの断ってこっちに来いよ」みたいなパワハラ受けるのが普通だったんだもの。

当然、家に帰る時間も読めない。妻や母が用意した料理を無駄にすることも増えてくる。男性が家事を「営み」として毎日やるなんて、予定すら立たないし物理的に無理だろう(そんな中で仕事と家庭を両立させていた共働き女性たちには頭が上がらない)。

というか、「家庭サービス」という超非常識な古い言葉に象徴されるように、家庭というのは「会社で働いたうえに、プラスオンでやらないといけない苦役」に近い印象だったくらいである。

考えたらすごい時代だなぁ。
昭和男子はそういう価値観を会社で毎日「常識」として植え付けられてきた
のである。

そして「内助の功」

これも普通に言われていた。女性がすべきは「内助」であり、それが「功」なのである。女性は家にいて「男性の大変さを助ける」ことこそが仕事だと思われていたのである。

【結婚】女性の価値観もどっぷり昭和だった

これは主に結婚した昭和男子に言えることであるが、結婚相手である女性の価値観がどっぷり昭和だったことも、男性の生活的自立を遅らせた一因だと思う。

「内助の功」という言葉と並んでものすごいのは「花嫁修業」という言葉。
ほんの十数年前まで世の中を跋扈していた。
いや、マジでいま考えるとすごい言葉だ。家事全般を習ってから「嫁入り」するのである。嫁入りという言葉もたいがいすごい。

そして家に入ったら入ったで、夫を「主人」と呼ぶ。これも強烈にすごい。
だって主人である。きっと仕(つか)えるんだな。

たぶん今でも、「花嫁修業」からの「嫁入り」、そして「内助の功」で「主人」に仕える、それが「良妻賢母」だ、という価値観の家は思ったよりずっとたくさん残っていると思う。地方からの女性流出問題の根っこにはこういう古い価値観が大きくのさばっている気がする。
そんな価値観の家に留まりたくないよね。そりゃ都会を目指すわ。


そう、女性もいろんな「呪い」をかけられてきた。
その呪いが間接的に「男性の自立」を遅らせた部分は大きいと思われる。

「女の幸せは結婚して子どもを産むこと」「女は結婚したら仕事はやめて家庭に入る」「男は外、女は内」「男は仕事、女は家庭」「家庭を支えるのが女の務め」「台所は女の城」「女は家事が完璧にできて一人前」「男に家事をさせるなんて恥ずかしい」「料理や裁縫ができないと嫁には行けない」


母親や祖母から。結婚してからは義理の母(姑)から。
直接的に間接的に、それとなく暗黙裏に、このような価値観を押しつけられてきた女性も多いと思うし、男性もそれを横で見聞きしている

それが男女間の常識だった。
そして、真面目で働き者の女性ほど、それに従い、男性を支えたのである。

これを「当然のこと」と思い甘えまくってきたのが昭和男子だ。
これは仕方ないことだと思う。
料理を手伝おうとしても「あなたはしなくていい」「飲んで待ってて」みたいに甘やかされたりした。逆に「あなたがやるとかえって時間がかかる」「邪魔だから座ってて」「あーもう散らかるからあっち行ってて」と台所から追い返された男性もいるだろう。

その家にはその家のしきたりや段取りがあって、姑(しゅうとめ)が嫁にその精神やノウハウを叩き込むのも定番だった。
女性が少し進歩的な価値観の家に育ったとしても、「うちの家ではこうやるの!」と結婚先の姑に叩き込まれる。いつもは理解ありげな夫(男性)もそれを見て見ぬ振りする、とか、よくテレビドラマで描かれてきた情景だ。

【目標】武将も偉人もヒーローも、誰も家事をしなかった

昭和男子が少年時代や青年時代に憧れた対象ってどんな人たちだと思います?

まずは武将だ。武士サムライ志士たちだ。
信長や家康、龍馬や西郷、新選組やら宮本武蔵やら。

学校で読まされた偉人伝に影響を受けた人も多いと思う。
ナポレオン、リンカーン、エジソン、アインシュタイン、日本では野口英世に福沢諭吉などもそうかもしれない。

さらにいうと、スポ根マンガやアニメのヒーローたち
「巨人の星」「あしたのジョー」「タイガーマスク」「ドカベン」「キャプテン」「侍ジャイアンツ」「キャプテン翼」「SLAM DUNK」「六三四の剣」「はじめの一歩」・・・。

リアルなスポーツ選手もそうだ。
長嶋茂雄とか王貞治、そしてオリンピックのヒーローたちも入ってくるかもしれない。

いや、何が言いたいかというと、これらのヒーローやロールモデルに「家事をやる人」がほぼいなかったのだ。少なくとも見えている範囲では。
そう、「家の中で生活的に自立している男性」という成功例を子ども時代からまったくと言っていいほど見ていない。男性は社会で闘い、家庭のことは女性任せという世界観が当たり前だった。

少年から青年時代にずぅっとこういうヒーローやロールモデルの「生き方」に触れてきたのって、意外と根深いと思うなぁ。家庭よりも優先すべきことがある。そう植え付けられてきたとしても仕方がないだろう。

【憧憬】家庭を顧みない無頼派や破滅型が憧れられてきた

無頼(ぶらい)派。破滅型。大酒飲み。博打打ち。
男の憧れだ。
坂口安吾や太宰治だけではなく。星一徹や丹下段平だけでもなく。高倉健や菅原文太や渥美清や松田優作だけでもなく(この4人は役柄の話だが)。小説や映画やドラマで主役・脇役で出てきたある意味「ダメな男」たち。これに男は憧れた。存在にではなく「そういう生き方」に憧れた。

高度経済成長期、男は「歯車」だった。
その反動だろうか。社会のルールや常識に縛られず、自由に、時に反社会的に生きる男性像に憧れる男性は多かった。

その生き方を今風に言えば「セルフ・ネグレクト」である。「営みとしての家事」の真逆に近い。自愛からもっとも遠いところにある。自分を養うなんてクソ喰らえだ。

もちろんすべての昭和男子がそうではない。
そういうのを軽蔑してきた人も一定数いるとは思う。でも、そういう生き方に憧れた青春時代を過ごした人は心の奥底で「家庭を顧みない男ってちょっと格好いい」と思ってる。

夜になったら大衆居酒屋でも覗いてみてほしい。
オヤジがひとりで顔をしかめて飲んでいる。「おれって渋い?」ってどこかで意識しながら飲んでいる。あれはね、太宰治だし星一徹だし高倉健なのだ。格好いいしモテるとすら思っているのだ。

これも意外と根深いと思う。
そういう人は「営みとしての料理」とか「男の恥」くらいに思っているかもしれない。

【日常】コンテンツ制作者のほとんどが男性だった

ここまで【両親】【学校】という教育、【仕事】【家庭】という社会での環境、【目標】や【憧憬】というロールモデルなど、様々な観点から「男が生活的に自立できなかった要因」を見てきたが、そういう価値観を日常の様々な場面で垂れ流し、助長してきたのがマスメディアである。

昭和や平成のドラマやニュース、ワイドショー、新聞でのいろいろな記事、男性誌・女性誌と分かれた雑誌・・・。これら各メディアのコンテンツは、そういう価値観を日本の隅々まであまねく届け、浸透させてきたと思う。

もちろん「新しい価値観」を届けていた番組や記事もたくさんあったと思う。それらが時代を進化させてきた面もある。ただ、番組や記事を作ってきたプロデューサーやディレクターや記者のほとんどが「男性」という時代だったのは無視できない事実だ。

ボクは広告会社というマスコミの端っこで長いこと働いていて、テレビ局にもラジオ局にも新聞社や雑誌社へも頻繁に出入りしていたが、決定者である偉いさんはほぼ全員が男性。プロデューサーやディレクターも(女性誌を除いて)ほぼ全員が男性だった。

つまり、①〜⑥の理由で「昭和男子の価値観」が作られていったうえに、そういう昭和男子がマスメディアを使ってその価値観を日本の隅々までばら撒いていたのである。

いまの若い人には信じられないレベルで「マスメディアの影響力は強かった」ので、個人個人が「なんか変?」「古くない?」と思っても、社会全体はちっとも変わらない。そういう時代が長く続いたのだ。

というか、今もまだそうかもしれない。
マスメディアの幹部や制作責任者はまだまだ男性が多く、そしてマスメディアは(特に大都市圏以外では)まだまだよく見られている。

まずはマスメディアが価値観を変えないと、今後も「昭和な価値観」が垂れ流され続ける可能性は否めない。

結論:男性個人個人のせいではない。でもやらないとヤバい!

ここまで見てきた通り、男性が家庭内で生活的に自立していないのは決して「男性個人個人の問題ではない」。

そう、あなたのせいじゃない。

家庭内や学校での教育、会社や結婚生活での環境、ロールモデルがいないこと、そしてマスメディアの発信などが複雑に絡み合い、結果的に「男性が生活的に自立すること」を阻んできた、のである。
言うなれば、男性も時代の被害者だ。
男性の生活的自立が遅れた背景には、男だけが悪いわけではない様々な問題がたくさんあったのである。

とはいえ、社会も変化した。共働きや独身男性も増えた。
このまま生活スキルを持たないまま生きていくと、自分も家族も大変な状況に陥る可能性が高い。第1回からの連載で書いてきているように「このままでは社会のお荷物」になってしまうだろう。

こんなに頑張って働いてきたのに!
こんなに時代の価値観にアジャストしながら生きてきたのに!

いや、嘆いていても仕方がない。
やってやろうじゃないか。

そして変わってやろうじゃないか。

生活的に自立して、日々営んでいけば、染みついた価値観もきっと変わっていくだろう。
そう、染みついた価値観も「日々の小さな習慣」で確実に変わって行く。自分が「昭和な価値観に染まっているかもしれない」ことを自覚しながら、最低限の家事を毎日の習慣にしていこう。

では、「超最低限の家事」って何なのか。どういう家事なのか。
それを次回から、追っていきたいと思う。

まずは「料理」だ。

ジリメンにとっての料理は「継続」がポイントだ。
どう「継続」し「習慣化」するか。それをご一緒に考えていきたいと思う。