人が最も変えられない習慣は朝食であると、ずいぶん昔に読んだ記憶があります。そして朝食というものは、概ね家族の歴史の中で自然に形作られるもの。「いつも同じ」が一日の始まりにあるのは体と心を整えるのに、とても大切なのでしょう。同じメニュー、同じ味、そして食卓を囲む家族のいる風景――大人になって家族と離れて暮らしても、心の中に残るその朝食の風景から、ある日家族が抜けてしまう。その悲しさ、怖さ、むごさに心揺さぶられる一遍です。
著者紹介
麻生要一郎(あそう よういちろう)
料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴った、エッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊の著書を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数。2024年は3冊目の書籍「僕のたべもの日記 365」(光文社)を刊行。また、最新刊は当サイトの連載をまとめ、吉本ばななさんとの対談を掲載した「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22」(オレンジページ)。
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撮影/小島沙緒理
朝食は、食事というより“習慣”である。

パンとコーヒー、野菜と果物に甘酒を加えたスムージー、季節の果物を少々というのが、朝の定番。日々パン屋に出かけては、翌朝のパンを購入する。もし翌日が忙しそうならば、その翌日の分も調達する、たくさん買わないのが掟。我が家の2人分、同じマンション内に事務所を構える、ささやんの分も含め、クロワッサンなら3個購入。ずっとこのメニュー、旅館などで美味しい和朝食が出てくると嬉しさもあるが、どこか調子が狂ってしまう。


記憶を遡ると物心ついた時には、毎朝そのメニュー。小学生の頃は、コーヒーじゃなくて紅茶。夕方、母が車で買い物へ行くと、スーパーや百貨店、パン屋さんに寄るのがお決まり。個人のパン屋さんが今ほどたくさんなく、専門性も高くない時代。子供の頃、地元にあった伊勢甚百貨店にあったドンクへ行っていたのは、よく覚えている。ガラス張りの店内には、いつもたくさんパンが並び、焼きたての良い香りがしていた。また、普段は家にいなかった父親が、日曜日に家にいる事があれば、車で横浜まで出かけ、元町のウチキパンに行った。シナモンが練り込まれたイギリスパンを母親は好み、僕はポリポリとした食感のパールシュガーが乗っているイタリアーノというパンが好きだった。思えば、このイタリアーノが、初めて自分で見つけた好きなパンと言えよう。母が選ぶのは、丸パンや食パン、クロワッサン、バゲットなど、シンプルなものだった。ナッツやドライフルーツが色々入っていたり、果物が上に乗っているようなものは選ばなかったのは、僕のパン選びにも影響している。

今も街を歩けば思い出のパンに出会える。母とお茶や食事を楽しんだオーバカナル銀座、母が好きだったのは、けしの実やかぼちゃの種がついたカイザー。最近はラインナップから消えてしまったようで見かけず、クロワッサンを。広尾のブーランジェリーブルディガラでは、クロワッサンや食パン。明治屋では、細長い、けしの実がかかったテーブルロール、アンデルセンの白パン。

僕が専門学校を卒業して、家業の会社に入社しようという22歳の春休み、母に乳がんが見つかり入院した。父が亡くなってから4年後のこと。突然に愛する人を失い、父が経営していた会社に従事するようになり、心労が重なったのだ。正確には、見つかったと言うよりは、僕が会社に入ることになり、安心して手術する決心がついたということだったのだと思う。卒業式を終えて帰宅すると、母に「○日と◯日空いている?」と質問された。空いていると伝えると「入院する日と、手術の日だから、その日だけ開けておいてくれる?」と言われた。とてもショックだったし、何も気が付かなかった自分に腹が立った。入院して、毎日見舞いに出かけた。食事の様子を見ていると、蓋を開けて一口食べては閉めている。学生の時には、毎日疲れて帰ってくる母親の為にごはんを作っていた。興味が湧かないと、食べない彼女の性質は僕が一番理解している。食べなきゃ病気が治らない、朝はパン屋さんで好みのパンを、お昼にはサンドイッチ、夜にはお弁当を作って届けた。ドリップパックのコーヒーも用意。「私のことは良いから、最後の春休み楽しんでね」とクールに言うが、食べてくれないのだから仕方ない。この感じは、カニクリームコロッケの回で書いた、僕が剣道の合宿でご飯に箸をほとんどつけないのと同類、まさに親子だ。がんが進行していたので手術は難しかった、先生からは術後の抗がん剤治療を勧められた。退院した母を迎えに行った帰り道、その話をしようとしたが「先生から抗がん剤の話された? 副作用が出て髪の毛が抜けるのは嫌なの、もしまた再発したら手術が出来れば手術をするけど、出来なければまあ仕方がないわね。」遠くを見つめながら、母はきっぱり言った。僕は、母の言葉を覆す事などできない。

それから15年が経って、がんの事など忘れていたある日。黒磯で友人のお店の立ち上げを手伝っていてオープン間近の時に、母から珍しく電話がかかってきた。「今からチョビを連れて行くから、預かって欲しいの…」と言う。その頃、チョビは母と実家で暮らしていて、母がお風呂に入ればお風呂の蓋に乗り、トイレに行けばトイレの前で待っているほど懐き、相思相愛であった。

そして、電話の声は息が荒れていた。「どうしたの?」と尋ねると「私、がんが再発したの、明後日入院するからね。」と呆気なく言われた。息が荒れている理由は、胸水が溜まっていて苦しいからとのこと。またもや母の異変に何も気がつけなかった事が、情けなかった。「今から帰るから。」そう伝えると、気丈な母が急に涙声になった「あなたの大事な時に、邪魔してごめん…」母の深い愛情を感じて、思わず僕も涙が溢れた。お店の皆に事情を説明して、水戸へ帰る事にした。母が好きだったSHOZO COFFEEでコーヒー豆、KANEL BREADに寄って母が好きなクロワッサンとロデヴを購入。実家の玄関を開けると、チョビが心配そうな表情で待っていてくれた。母は、思ったよりも元気そうだった。翌朝、好きなパンとコーヒーを用意しようと思うと、何も聞かないでという視線と共に「ごめんね」と言ってから、視線を手元に戻すと母は、おもゆを本当に美味しくなさそうに食べていた。それでも食べていたのは、きっと食欲が尽きていたのかも知れない。長年この家に存在していたはずのいつもの朝の光景が、突然なくなっていた事に、再びショックを受けた。前回の入院の時には、好きなパンやコーヒーが味方になった。しかし、今はもうそれが通じない、新たな戦いが始まったのだと思い知ることになる。

入院の準備を整えて、一緒に病院へ向かった。診察室に入ると、先生が状況を詳しく説明してくれた。断定せず、とても慎重に「乳がんの再発の可能性が高いですね。」と繰り返す。車椅子に乗せられた母はレントゲンを撮りに行って、僕は外の椅子で待つように促された。まるでドラマのように、再びドアが開いて診察室に呼ばれた。先生から「乳がんの再発で間違いないと思います、脳と肝臓とリンパに転移が見られます。胸水が溜まっている状況で、手術をするにも抗がん剤治療をするにも難しい。端的に言って余命は3ヶ月。肝臓か脳のどちらかの進行が早まると、もっと早まる可能性もあります。ご本人にどう伝えたら良いか、息子さんにご相談したくて。」 僕は気を失いそうになりながら、先生の言葉を聞いていた。母は気丈だけど、そのまま伝えては開き直って、さっさと家に帰ってしまいそうな気がした。母の覚悟は決まっていたが、それでも息が苦しいから、胸水を抜いてほしいと言っていた。それだけは叶えたい。一旦、胸水の状況を見ながら、落ち着いたら治療すると言うことで説明することにした。入院しても、以前の時のように食事を持って行くことも出来なかった。ただ時間だけが、過ぎていくのが虚しかった。誰より、状況を理解しているのは母だった。先生と話し合い、胸水を抜くように直談判。先生からは、胸水を抜けば呼吸は楽にはなるが、全体の状況は悪くなると言うような説明があったが、母も僕も受け入れた。呼吸が楽になる代わりに、黄疸の症状が出た。鏡をじっと見つめても、表情一つ変えない母の強さ。そして「もうやる事がないのなら退院します。」と、先生にきっぱり言った。僕が先生と協議し、家に酸素吸入の機械を設置、可能な限り側にいると言う条件で退院をした。

1ヶ月近く入院していたので、退院してくると話をした時に、チョビが嬉しそうに身をくねらせて喜んだ事を覚えている。母が退院してくると、チョビは一緒にベッドに潜り込んで、片時も離れなかった。それから、2ヶ月ほどは自宅で過ごす事が出来た。母は自分のことは、きちんと自分でしていたし「私は大丈夫だから、もとの生活に戻ってね!」と言っていた、そんなわけはないのに。調子が良い時には好きなパンを食べることも出来たし、コーヒーも飲めた。その時間が、僕は本当に嬉しかったけれど、自宅で毎日暮らす様子を見ていると、小さく何かが終わり、物語は最終章に近づいている事だけが分かった。

ある日、出かけていると、母から文字の羅列の意味が分からないラインが来た。慌てて電話をすると「ごめん、間違えちゃった」と言う。母は何にも言わないけれど、身体に何か異変が起きている事だけは、間違いなかった。家に帰ると母は、ぼんやりとテレビを眺めていた。何だか宙を見ているような感じがした、エアコンのリモコンを操作している時も、本体の光っている所を見つめている。完全に目が見えないわけではないけれど、焦点が合わないか、ぼんやり見えていたのかも知れない。しかし、そんな事を母は絶対に言わない。トイレにも、自分で歩いて行った。明らかに普段とは違う様子だったので、手伝おうとすると必要ないときっぱり言われた。何日も前から、右へ何歩そこから左へ何歩と体で測っていたのだと思う。普段より時間がかかったものの、母はいつも通りだった。

翌日、朝起きると、母は眠っているようだった。話しかけると反応するが、それも首を縦に、横にふる程度だ。いよいよかも知れないと、僕とチョビは覚悟をした。何も飲みたがらない、濡らしたタオルで口元を拭いてあげるのが精一杯。時々、力の抜けた母の手がチョビの頭を撫でていた。きっと大切な何かを、伝えていたのだと思う。眠るように時間は過ぎたが夜に、パッと目が開くとベッド側の僕とチョビの方をしっかり見つめて「私はもう大丈夫だから、休みなさい」と言った。きっと最後の力を振り絞って、僕とチョビに最後の言葉を残してくれたのだ。

母が最後に食べたパンは一体どこのパンだったのだろうか? 残念ながら、覚えてはいない。今も、思い出のパン屋さんへ行った時に母の気配がそこにあるような気がしてならない。母が亡くなってからしばらくして、朝食の時チョビがクロワッサンを食べるようになった。本当に小さなかけら、クンクン香りを嗅いでは、美味しそうに食べている。きっと母は僕に言うことのなかった、病の辛さや痛さ、死に対する恐怖や不安、そういう事をチョビにだけは話していただろう。チョビがパンを食べているのは、母への祈りのようなものなのかも知れない。だから僕はパンを買いに出かける、今日はどこのパン屋さんにしようかな?
→次回に続く (7月8日火曜日公開予定)
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