麻生要一郎さんの半生で、かなり重要な時期のお話。建設会社の跡取りとしての立場を捨て、新たな模索を始めるころに開いたカフェと、その転換期を見守る人々の視線、何気なく発せられる言葉……。それらが、まるで暗示か何かのように麻生さんに届き、麻生さんがそれらを受け止め、ゆっくりと覚悟を決めていく様がまざまざと目に浮かびます。読後、たぶんドライカレーが食べたくなると思いますが、まずは玉ねぎをゆっくりと炒めて、甘みを引き出すことから始めてくださいね。
著者紹介
麻生要一郎(あそう よういちろう)
料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴った、エッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊の著書を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数。2024年は3冊目の書籍「僕のたべもの日記 365」(光文社)を刊行。また、最新刊は当サイトの連載をまとめ、吉本ばななさんとの対談を掲載した「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22」(オレンジページ)。
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●麻生要一郎「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22」
撮影/小島沙緒理
人生経験を積み重ねていくと、記憶の中にしか存在しない場所や景色が増えていくのではないだろうか。

生家のダイニングテーブルで、母が作ってくれたグラタンを食べたいと思うこともあれば、父方の祖父母の家、本来ならば居心地が良いはずの掘り炬燵、独特な冷たさ居心地の悪さは、家業を共に営む祖父と父のすれ違いや、祖母と母の所謂嫁と姑問題が関係していた。母方の祖父母の家の薄暗い台所で覗き込んだ真っ黒な天ぷら鍋、美味しかったさつま芋の天ぷらの味を回想する日もある。色々な人と話をして、問題を解決し或いは決裂してきた、家業の会社の応接室。そして、自分が手がけたもう存在しないお店の景色や料理。

水戸で友人と営んでいたカフェは、目抜通りから一本裏手の、コンクリート打ちっぱなしのビルの3階、天井が高くて大きな窓が印象的だった。窓から見えるのは、道路を挟んだ対面のビルだけなのだから、景観が良いというわけではなかったが、それでも大きな窓から入る光が気持ち良かった。

カフェを始めたのは、僕が家業の会社を辞めるちょうど1年くらい前のこと。当時は、カフェブーム真っ盛り。ダイナー系のカフェなら、バワリーキッチン、ヌフカフェ、カフェ・アプレミデイ…昼から夜中まで営業していた。気楽で美味しい、時代だったような気がした。今はコンサート帰りに、夜のコーヒーを1杯というシーンでも、お店が見つからず苦労する。当時は、夜中でもコーヒーと美味しいデザートを提供してくれるお店が、たくさんあった。そこに座っただけで、パリに行ったような気持ちになる、ドゥ・マゴ・パリ、カフェ・デ・プレ、オー・バカナルといった、フレンチスタイルのカフェも続々とオープン。どのカフェにも、青春時代の思い出がたくさん詰まっているし、スタイルのあるカフェが、街を彩っていた。

それは何も都会に限ったことではない、地方都市にも個性的なカフェは点在。僕の故郷水戸からも近かった、栃木県益子町には”STARNET”というオーガニックなスタイルのカフェ、黒磯には”SHOZO COFFEE”というカフェがあって、絶大な人気を誇った。どちらのお店も、週末には近県から多くの人が訪れていた。カフェがあることにより、街が自然に活性化し、そこで暮らす人々の日常が変わっていく様子が、当時は建設会社の後取りとして、ちょっと退屈な毎日を過ごしていた僕にとって、都市計画的な視点でカフェに興味を持ち始めた。

家業の建設会社を早めに辞めて、自分でカフェでもやりたいと夢を見た。僕がオギャアと生まれた頃からうちの会社で働いていた経理部のみっちゃんは、そんな僕の気持ちを見透かすかのように「カフェとかやりたい?…でもさ、要君、諦めた方が良いよ」と、お昼を食べながらポツリと言ったのを記憶している。ここだけ聞いたら、冷たい感じがするけれど、僕が生まれ育った環境や宿命、地方の建設会社の内情、カルチャーへの理解のなさ、家族、全てを理解の上、僕の現実の姿に寄り添った言葉だった。僕は、その言葉を思い出しながら何度も諦めようと思っていた。諦めるというのは、今もっとも嫌いな考え方だ。



ある時、高校時代からの親友の光君が、カフェをやりたいと話してくれた。彼は、高校時代にも誰かの誕生日という時、ホールケーキを焼いて来るような子だった。信頼する彼なら、自分が店にいなくても一緒に出来るし、ひょっとしたら自分も会社を辞めるかも知れないしなと覚悟して、その話を受け取って進めたのだ。今考えてみると彼が暮らす、都心でやった方が良かったのかもしれないが、当時の僕には水戸以外の場所は考えられなかった。

昼から夜まで一日通しの営業は大変。僕は家業だけで精一杯だったから、お店のオペレーションには加わらず、且つ将来的に家業を離れる時のことも考えて、周りに自分の素性を明かさなかったので、名前を呼び難い事もあってスタッフからは「オーナー」と呼ばれていた。その時は自然と受け入れていたが、今思い返すとドラマか映画の登場人物みたいで、カッコいい。最近、家族のような友人ささやんや森君が、僕のことを「社長!」と呼んでくれる感覚とも、似た面白さがある。


ランチは週替わり、サラダランチ、パスタランチ、定番でずっとあったのがドライカレー。夜のメニューにもあった、友人が考えたそのドライカレーを、僕は何度食べただろうか。家業のことで、上手くいった時、頭を抱えている時、色々な心境で食べたと思う。ツヤツヤした黄身にスプーンを入れて、トロリとした黄身とカレーとごはんのコラボレーションは、最高だった。今も水戸に帰った時、偶然出会った方にカフェの話をされることがよくある。誰かの日常の中に溶け込んでいたならば、それはとても嬉しい。席の配置はゆったり、本をたくさん置いていた。店内には穏やかな時間が流れて、静かに過ごす人が多い店だった。


僕はお店を始めてから1年経った頃、自分で予想した通り会社を辞めた。相変わらずお店には立たなかったが、人手が足りない日にエプロンをつけてお店に立っていた。そんな時、家業で顧問契約をしていた弁護士事務所の若先生が店にやって来た。たまたま同じ年齢で、これから色々一緒にと思っていた矢先に僕が会社を辞めたのだ。彼は何も言わなかったが、恐らく誰かにお店のことを聞いて来てくれたのだと思う。少し前まで、仕立てたスーツを着て偉そうにしていたのに、今の僕はTシャツにエプロン姿。あまりにもギャップがあったから、正直恥ずかしく感じた。帰りに見送った際に「エプロン似合ってますよ、要一郎さん」そう言ってくれたことを、今でも思い出す。本当に似合っていたかどうか分からないけれど、彼なりの激励の言葉だったと捉えている。僕が会社を辞めたのは、取締役の退任届を出した時だったかも知れないが、家業の会社から本当の意味で離れて新たな人生を歩み始めることが出来たのは、その夜だったのではないだろうか。


お店は、3.11の震災がきっかけとなって、閉店した。今なら、窓際の1人掛けのソファー席にでも座って、原稿のことを思案しながらドライカレーを食べ、食後にコーヒーを飲めば、スラスラと良い原稿が書けそうである。メニュー考案者には、お店のレジピと全然違う! と、怒られそうだけど、気まぐれオーナーのレシピということでお楽しみ下さい。

ドライカレー(4人分)
材料
合いびき肉 300g
玉ねぎ 1個
ピーマン 3個
にんじん 1/2本
セロリ 1/2本
しょうが 20g
にんにく 1かけ
A
カレー粉 大さじ3
ガラムマサラ 小さじ1
トマトケチャップ 大さじ3
ソース 大さじ1
オリーブオイル 大さじ2
温かいご飯 適宜
黄身 4個分
乾燥パセリ 適宜
作り方
1.玉ねぎ、ピーマン、にんじん、セロリ、しょうが、にんにくはみじん切りにする。
2.フライパンにオリーブオイルを入れて弱火にかけ、しょうが、にんにくを炒める。香りが立ったら、玉ねぎを加えて透き通るまで炒め、にんじん、セロリ、ひき肉の順に加えてさらに炒める。肉に火が通ったら、ピーマンを加えて炒め合わせる。
3.Aを加えて味を整え、全体をよく混ぜ合わせる。
4.器にごはんを盛り、3をのせ、パセリを振る。
→次回に続く (8月12日火曜日公開予定)
「酸いも甘いも」をまとめてお読みいただけます。
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