一概には言えないかもしれないけれど、おいしいものを作るためには、おいしいものを食べてきた経験の必要があって、さりげない盛り付けのセンスや見た目の美しさのためには、美しいものを見てきた経験が必要なのではないでしょうか。麻生要一郎さんの料理、とりわけ彼を一躍有名にしたお弁当は、生まれてから今まで麻生さんが何をおいしいと思い、何を美しいと感じたかが、ぎゅっと、しかし、のびやかにひとつの箱に表現されたものなのだということがわかります。あの、有名な「麻生さんのお弁当」の話をゆっくりご一読ください。卵焼きのレシピもあります。
著者紹介
麻生要一郎(あそう よういちろう)
料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴った、エッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊の著書を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数。2024年は3冊目の書籍「僕のたべもの日記 365」(光文社)を刊行。また、最新刊は当サイトの連載をまとめ、吉本ばななさんとの対談を掲載した「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22」(オレンジページ)。
麻生要一郎さんのこちらの記事もご一読を!
●「ウェルビーイング100大学インタビュー」麻生要一郎さん
●「料理とわたしのいい関係」麻生要一郎さん
●麻生要一郎「酸いも甘いも ~僕の自伝的たべもの回想~」記事一覧
麻生さんの連載が本になりました。大好評発売中です!
●麻生要一郎「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22」
撮影/小島沙緒理
僕が作るお弁当が繋いでくれたご縁で、今を生きている。

母を看取り、現在のマンションに引っ越して、高齢姉妹の養子に入った頃「ごはんを作っていればどうにか生きていけるかな?」と、あてもなく過ごしていた。
そう言うと格好良く聞こえるかも知れないが、実際は暇で時間を持て余し、見兼ねた編集者の友人が「要一郎さん、時間があったら、来週の撮影の時お弁当作ってよ!」そう声をかけてくれたのだった。




近所の食材パッケージ屋さんで適当なお弁当箱を選び、普段作っているおかずを詰めてお弁当を届けた。五反田にある、立派な邸宅のハウススタジオ。雑誌の撮影の時、こういうお弁当の需要があるのかと初めて知った。撮影が終わった頃「おいしかったよ!」と、友人からお褒めの連絡があった。お弁当を届けに行く事は、普段見ることが出来ない友人の仕事中の顔が見える上、役に立てる事が何より嬉しかった。その時はまた撮影の時にでも頼んでくれたら良いなと思う程度で、まさか“お弁当屋さん”と呼ばれる人生が待っていようとは、思いも寄らなかった。



少し経って「先日の撮影の時にお弁当を頂いて美味しかったので、またお願い出来ますか?」そんな連絡を撮影に居合わせた別な方からメールをもらったので、同じように作って届けた。そうすると、また居合わせた別な誰かが頼んでくれて、数珠繋ぎにお弁当が一人歩きを始めた。

ただキッチンを作っただけなので、屋号も何もない。食べている時、おかずに入っているおひたしの青菜が小松菜かほうれん草か分からないと、頼んでくれた方に迷惑がかかると思って、手書きで毎回御品書を記した。日付と屋号に似せて麻生とだけ書き添える。それ以来、鳩居堂の便箋に呉竹の筆ペンが僕の必須アイテムとなった。しばらく続けるうち、その御品書を冷蔵庫に貼ってくれているという方が何人もいらっしゃった事に、驚いた。


嬉しかったのは、南青山にかつてあったDEE’S HALLの主宰、土器典美さんがお弁当を褒めてくれたこと。僕のパートナーの英治さんが営んでいた根津美術館近くにあった頃のHADEN BOOKS : で、お弁当の販売会をした時に食べてくれたのがきっかけ。以来、展示設営の時、イベント、打ち上げの度に「要一郎さんお弁当作って〜」と連絡があった。彼女は、自分でも料理本を何冊も出版する料理上手、食に携わる友人も多かった、そして絶対にお世辞で褒めたりしない。そんな彼女が僕のお弁当を推してくれたお陰で、多くの出会いが生まれた。土器さんから繋がり、僕を可愛がってくれたスタイリストchizuさんと編集者Pさんが「銀座のスタジオにお弁当を2つ持って来てー」と連絡をくれた。僕はてっきり何かの撮影で、お昼に食べるお弁当を頼まれたと思い届けに出かけた。人気雑誌でPさんが受け持つ、食のページの連載でお弁当特集の企画の撮影だった。つまり、お弁当が主役だったのだ。しばらくして掲載誌が発売されると、色々な名店のお弁当を差し置いて1ページにデカデカと僕のお弁当の写真が掲載されていた。それを見て下さった方から依頼がまた殺到し、どんどんお弁当の縁が広がっていった。

僕の料理は、誰かの役に立ちたいと言うことが原点にある。お弁当を詰める作業は、なかなか手間がかかる事なのだ。前々日に買い出しをして、足りないものを求めて梯子。前日にはお浸し、煮物まで済ませておいて、当日に揚げ物、焼き物を仕上げていく。食べるのは、一瞬だけど、完成するまでには結構な時間と手間がかかっている。最初はありきたりのお弁当ケースだったが、今の形になっていくまでには様々な遍歴があったように思うが、どう変わっていったかは、夢中だったし詳しく記憶していない。

土器さんとのご縁から繋がり、弟のように思っているFOOT WORKSの森君との出会いも、DEE’ HALLでお弁当を一緒に食べたのがきっかけだった。お店にお父様がいらっしゃる時、近所でお昼を食べるお店が少なく健康面に配慮したお弁当を作って欲しいと連絡をもらった。配達に行くと、お父様が独自のメソットで編み出した整体術で、いつも身体を整えてくれた。その時に身体を押しながら「来週会う人に、あのお店でお土産を買って、こういう会話をしようと思っている、こりゃ疲れちゃいますね。でも、身体が疲れていても気力でどうにかなっちゃう。」そう言われた事があった。一体、身体のどこから、そんな事が読み取れるのだろうと不思議に思った。終わった頃に、森君が丁寧にコーヒーを淹れてくれて、少し話して帰る。森君、お父様、3人で何か大切なものを交換しているような心地良い時間だった。今はお店も移転、その機会もなくなってしまったが、用事があってお店に行く時には、お弁当を持って行って、その頃の事を懐かしく思い出している。

出会いと共に「要一郎さんお弁当作って」と言われて、広がったお弁当。不思議な話、自分が世間から“お弁当屋さん”と見られているとは、ぜんぜん思っていなかった。美術館で開催されるイベントの海外からのゲストにお出しするお弁当の依頼があり、車で通用門から入った。入り口の守衛さんに名前を告げると、奥の警備員さんに向かい大きな声で「お弁当屋さん来ましたーーー!!!」と叫んだ。最初は、何と言っているのか分からなくて「いえ、麻生ですけど…」と言いそうになってしまった。その時に、僕は初めて自分がお弁当屋さんだったのだと認識をした。お弁当を作り始めて、もう3年以上経った頃の話である。


今は、忙しく家族のような存在の面々の依頼でしか、お弁当は作れなくなってしまった。書く仕事のきっかけである最初の本の出版も、出版社の担当編集者がお弁当を食べて気に入ってくれたから。今、毎日のように支えてくれ、家のリフォームもしてくれた、ささやんと仲良くなったのも、お弁当がきっかけだ。彼が、自分の仕事でお世話になっている人達へお弁当を渡したいと依頼してくれた時、金額を聞く事もなく、領収書もいらないからと、綺麗な封筒に、僕の伝えようとした金額よりもずいぶん多く入れて、手渡してくれた。後から封筒を開けたとき、男前過ぎだろうと思った。金額ということではなく、僕はその気持ちが嬉しく、自分のことを理解してもらえた、そんな喜びを初めて感じる事ができた。今でもその封筒は、出会いの記念に中身もそのままにとってある。

そう考えると、お弁当を作っていなかったら、今という時間は存在しなかった。本を出していなかっただろうし、ささやんがいなければ姉妹の暮らした家もきっと手付かずのまま、チョビが気持ちよく昼寝する、広々とスッキリした家は、憧れでしかなかった。他にも、人生を一緒に謳歌している面々とも出会っていなかっただろう。今になって思う、お弁当を頼んでくれた友人は大変な恩人である。今はロンドンに暮らす彼女に、いつかありがとうを伝えに行こうと思っている。
お弁当に入っている麻生さんの卵焼き
材料(作りやすい分量)
卵 4個
調味料
砂糖 大さじ2
しょうゆ 大さじ11/2
みりん 大さじ1
油 適量
作り方
1 卵焼き器に油を馴染ませてよく熱しておく。
2 ボールに卵を割り入れて、調味料を加えてよく混ぜる。
3 卵焼き器の火加減を中火にし、2の1/4を入れて全体に広げる。大きな気泡は潰し、卵液の表面が半熟状態まで固まってきたら、奥から手前まで3回で巻く。
4キッチンペーパー等で油を適宜補充しながら、3を4回繰り返す。
5 火からおろし、巻き簀で巻いて形を整え、そのまま粗熱を取る。切り分けて、皿に盛り付ける。
→次回、最終回に続く (9月公開予定)
「酸いも甘いも」をまとめてお読みいただけます。
●麻生要一郎「酸いも甘いも ~僕の自伝的たべもの回想~」記事一覧
麻生さんの連載が本になりました。大好評発売中です!
●麻生要一郎「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22」