モロッコで書いた「命懸けの塩鰤」~最終回のごあいさつに代えて

麻生要一郎さんの半生を、その時々の思い出の食卓の風景やたべものをフックにして書き綴っていただいた「酸いも甘いも」、は今回が最終回。麻生さんと言えば、その物腰も語り口もおだやかで柔らかいのですが、その芯には「嫌なものは嫌」という硬い岩盤のような意思と、決めたら諦めない意志の両方があるようです。読み進むうちにその意外さにハッとすることも多くありました。
さて、この連載は今回で終わりますが、刻々と変化する今後の麻生要一郎の活躍からは目が離せません。道の途中でちょっと木陰で休んでいるように見えても、その木の向こうには、また新たな道も見えるようです。みなさん、どうぞお楽しみに。一緒に、新しい麻生さんの見る風景を眺めましょう。

著者紹介
麻生要一郎(あそう よういちろう)

料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴った、エッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊の著書を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数。2024年には3冊目の書籍「僕のたべもの日記 365」(光文社)を刊行。また、最新刊は当サイトの連載をまとめ、吉本ばななさんとの対談を掲載した「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22」(オレンジページ)。

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麻生さんの連載が本になりました。大好評発売中です!
麻生要一郎「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22」

撮影:小島沙緒理 麻生要一郎(モロッコ)

連載「酸いも、甘いも 〜僕の自伝的たべもの回想〜」をお読み頂いて、ありがとうございました。

人生100年時代とすれば、現在は折り返し地点に差し掛かる。

そこで自伝とは、ちょっと早い気もするし、何だかおこがましい気もした。しかし、酸いも、甘いも 噛み分けながら、人様とは随分と変わった経験を積んできた自負はある。

振り返れば遍歴と捉えられるが、その時々では、もう逃げ帰る退路もなく、パッと目の前に現れた光の糸を必死に掴んだだけのこと。その後はある種の力技で、信じる、諦めないとか、軽やかな執念があって、いつの時代でも何かしら実を結ぶ事が出来たのだと思っています。どこか不透明で、先行きの見通しが立たない時代を生き抜く中、誰かのお役に立てるならばと思って、恥を忍び心の内を正直に書いてきました。

人生の折々の出来事は、食卓に並ぶ料理から回想され、紐解かれる。連載で書いた中でも、特に印象深いのは、冷やし中華、塩鰤でしょうか。

姉は食卓に座り、僕が食べている様子を、くわえ煙草をしながら見つめて「私がいなくなったら、あなた冷やし中華食べたり、塩鰤作るたびに、私のこと思い出すかしらね」と、話していました。恐らく、彼女の人生の中で、そう話して相手の気を引くシーンがたくさんあったのだと思う、慣れた感じがありました。僕は大袈裟に食べ、笑顔で「うん」と頷き、ちらりと目を向けると姉は、屈託のない笑顔をしていて、その瞬間こそが僕にとって救われる瞬間でした。気難しい姉妹の養子に入って、彼女達が喜んでいるかどうかは、日に寄り、気分に寄り、様々だったから。その瞬間だけは、僕だけではなく、お互いにホッとしていたのではないかと思っています。

「塩鰤」の原稿を書いたのは、友人達とプロジェクトのために訪れていたモロッコでした。行きのエールフランスの飛行機の高揚感にすっかり負けてしまい原稿が手付かずで到着、乾いた土の山肌を眺めては姉妹との暮らしとはかけ離れてしまい、日々食べるのがタジンとクスクスでは塩鰤の味が浮かばなくなる。香辛料に慣れてきた舌が、炊き立てのごはんや味噌汁と塩鰤をどこか恋しく思えてきた、最終日のマラケシュ、リヤドの中庭で鳥の囀りを聞きながら書き上げました。書けない、書けないと旅の道中で騒いでいたので、皆が心配してそっとしておいてくれたのです。

リヤドのキッチンから、姉が伊万里焼の巨大なお皿に、いつのものか分からない塩鰤をたくさん盛り付けて出てくる姿を何度も妄想していました。友人達がどこからともなく集まってきては、ご飯を片手に美味しそうだねと箸を伸ばすが、ちょっと待ってそれは……皆が喜んでいるのは嬉しいけど、食べちゃダメだとも言うに言えない胃が痛くなるような様子を思い浮かべているうちに、無事書き終える事が出来ました。

階下から笑い声が聞こえ、ホッとした気持ちでマイボトルに入ったコーヒーを飲みながら、モロッコのコーヒーはミントの香りがすると旅の間ずっと思っていたのですが、初日にボトルに入れてくれたミントティーのティーバックがずっと底に張り付いていたのでした。モロッコの旅を思い出すと、塩鰤が浮かび、塩鰤を思うと、モロッコが浮かぶ。その当時は、命懸けの思いで食べていたけれど、時間が経てば良い思い出です。今も、冷蔵庫に1柵だけ、塩をした鰤が寝かせてある。食べた後は、ミント風味のコーヒーで口直しをしようか。一つ、一つの料理が過去、現在、その先へとまた繋がっていく。

改めて各章を読み返しながら、今が人生折り返し地点で、まだ半分残っているとするならば、これからまた一体何が起こるのだろうかと、期待と不安が入り混じります。年を重ね、だんだん年老いてきた愛猫チョビ、姉妹から受け継いだ老朽マンション、逃れられない仕事の山、パートナーに家族のような友人達。我が家に夜な夜な集まっては、プライベートから、仕事、夢や老後の話まで、食卓を囲んでいる。最近は、夜だけでは間に合わなくなってきて、朝に昼にと誰かが現れる。それぞれに忙しく、予定を合わせようと思うとちょっと大変なのに、食卓を囲むのは頻繁。面々は、我が家こそが実家だとも言ってくれている。チョビと2人、新島から東京に戻った日の事を考えれば、こんなに嬉しいことはないのだ。“守る”ものが増えた今、きっと今までのような変容はないかも知れないが、良い意味で自分の期待を裏切りながら、新しいことにチャレンジをして、前に進んで行きたいと考えています。

この連載は一度終わりになりますが、書き下ろしも加えての書籍化、新しいチャレンジを含んだ、趣向を変えての新連載もスタートする予定ですので、どうぞお楽しみに!

→新連載をお楽しみに!(年内開始予定)

この連載が書籍になります。
「酸いも、甘いも。」2026年1月発売予定。
詳細は改めてお知らせします!