フレンチトーストが名物だった宿

麻生さんの履歴の中でもひと際彩りの異なる「島の宿Saro」を営んでいたころの話。ここに導いた人との出会い、偶然出会えた物件のこと、その島に一人ぼっちでいた愛猫チョビ、そして始まる目の回るような忙しさの日々……。慣れない島暮らしで試行錯誤して生まれた名物が季節の果物をふんだんに載せたカラフルなフレンチトーストでした。弱めの中火でちょっと焦げるくらいに焼いている間中漂うバターの香りが感じられる一遍、絵本のページを繰るようにお楽しみください。

著者紹介
麻生要一郎(あそう よういちろう)

料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴った、エッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊の著書を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数。2024年は3冊目の書籍「僕のたべもの日記 365」(光文社)を刊行。また、最新刊は当サイトの連載をまとめ、吉本ばななさんとの対談を掲載した「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22」(オレンジページ)。

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麻生要一郎「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22

撮影/小島沙緒理

朝起きて、一目散にキッチンへ向かうと、前夜に仕込んでおいたフレンチトーストを冷蔵庫から取り出す。常温に戻してから、フライパンにのせてバターで焼く。片面をこんがり焼いた頃、バターの甘い香りが漂ってくる。それは幸せな朝の光景に感じるかも知れない。

 しかし、1泊目のお客様がフレンチトースト12枚、2泊目のトーストの方が8枚、スタッフ分で4枚。日々数の入れ替わりが多少あるとしても、毎日その状況が続くと、決して幸せな香りだと呑気に喜んでもいられない。コーヒーのお湯を沸かして、ジュースのグラスやカトラリーを用意。トーストには目玉焼き、ヨーグルトに自家製のグラノーラをトッピング。フレンチトーストが焼き終わると、目玉焼きを焼き続ける。お客様が席に座ると、スタッフがテキパキと配膳する。片付けが終わると、スタッフルームで、スタッフ揃って朝ごはんを食べて、その日一日のスケジュールを確認する。部屋の掃除、港や空港への送迎時間。チェックアウト、部屋の掃除は皆に任せて、僕はおかわりのコーヒーを飲みながら、宿泊予約の問い合わせのメールを返信したり、夜の献立で必要な買い物リストを作ったりして過ごす。毎年、4月から10月までの営業、最初はどうなるかと思ったけれど、予約の受付を開始すると夏の週末は、あっという間に埋まってしまう人気の宿になった。

僕が切り盛りしていた東京の島、新島にかつてあった”カフェ+宿 Saro”の話である。朝の名物はフレンチトースト、夜の名物は金目鯛の煮付けであった。

島に縁があったわけでもない、海が凄く好きということもない。東京R不動産を運営する、株式会社SPEACの林さんとのひょんな出会いから、新島で宿をはじめることになった。たまたま食事会で同席した際、僕が水戸出身であることを話すと、彼は若い時にヨーロッパを放浪して帰国、大好きな納豆を買おうとすると、どの店も納豆が売り切れていて、街から納豆が消えた…みたいな話を面白くしてくれた。当時、みのもんたさんがやっていた午後のワイドショー番組で、納豆特集をした日だった。水戸という地名を、キャッチしただけで燃え上がる納豆愛。実家に帰った際に、地元にしか流通していない納豆を彼の事務所に送った。ただ、純粋に食べて欲しかったのだ。

先日と同じくらいの熱量で、お礼の電話がかかった。「事務所が騒然としています!」と言ってくれたけれど、察するに本人が騒然としているだけのような気がした。こういう時の、また会いましょうは社交辞令なものと受け止めているが、しっかり日時が決められて再会の機会がすぐに訪れた。林さんの事務所近くの定食屋で昼食を済ませ、事務所に案内された。ホワイトボードの机に向き合い、色々とインタビューされる。マッキンゼー(※)にいた彼は分析が上手かった、チャートにしながら、経済的成功を納めたいというよりは、誰と何をするかの方が重要というようなざっくりとした結論に至ると「東京の新島って知ってますか?」そんな質問から、僕は島へと導かれていったのだ。

※マッキンゼー……マッキンゼー・アンド・カンパニー 1926年米国で設立された、企業の成長、変革を支援する、グローバルな戦略・経営コンサルティングファーム。本社は米国で、世界60か国に130のオフィスを持つ。

初めて訪れた冬の新島は、風が強くて、海は落ちたら助からなそうな深い青さで、誰も歩いている人はいなかった。島の人達も、冬は出かけずマイペースに過ごす、そんな時期に島を訪れるのは、サーファーか出張の人と決まっており、僕らはどちらにも該当しなかった。何度目かの訪問時に民宿の女将さんに不審がられ「何しに来てるの?」と、声をかけられた。島に拠点を作ろうとしている話をすると、女将さんは「実家の廃業した民宿ならあるよ」と、地図を書いてくれた。そんな有難い事はない、難航するはずの物件探しは、こうしてスムーズに見つける事が出来た。

 人を何人か募って、皆で片付けをした。しかし島の事は分からない事ばかり、リフォーム、家具を選んでと開業が迫り、流石に不安になってきた頃、移住者のトシ君が居候してくれることになった。開業の準備をしている時に、トシ君が小さな猫を手のひらにのせていた。スタッフルームで仕事をしていた林さんと僕に「猫、飼ってもいいですか?」と言うのだ。林さんの険しい顔(多分何て答えたら良いのか分からなかったのだと思う)が、こちらを向いた時、僕が嬉しそうな顔をしていたので、オッケーになった。チョビとの運命の出会いだ、僕が最初の飼い主ではないから、名付け親は僕ではない。チョビは庭の小さな小屋に、一匹でいた。親猫の気配もなく、ただポツンと。

いざ宿が始まると、大変だった。予約が入って嬉しいと思って宿帳を埋めていったら、僕の休みは完全に無くなった。

 問題は宿の食事である、どんな料理の馴染みが良いのか色々と試してみた。結局、夜は僕がいつも作るような家庭料理、朝はいつものパンとコーヒーをメインにした朝食となった。朝食のパンは島にある「かじやベーカリー」というパン屋さんの、食パンを使用。ふわふわとした焼き立ての食パンを買うのは、日々の楽しみだった。毎日「6枚切りを4袋」と朝のうち連絡して、合間で受け取りに行った。オーダーしておかないと、売り切れてしまうのだ。種類がたくさんあるサンドイッチも、かじやベーカリーの名物。夏の繁忙期は、仕事を一つでも減らしたくて、朝食を買って来る日もあった。スタッフそれぞれにお気に入りが出来る、カツパン、白身魚のフライ、コロッケ、暑い夏の日ガッツリしたものが好まれていたけれど、僕が好きだったのは野菜サンド。レタスとぶつ切りに近い胡瓜とトマトを、マヨネーズソースで和えて挟んでいる。瑞々しい感じが、夏の朝にぴったりだった。しかし、瑞々しいが故、作り立てを買わないと、パンまで瑞々しくなってしまうから、要注意。

 フレンチトーストは、何か朝食に喜ばれるものをと考えたメニュー。ホテルオークラに宿泊した際、朝食に食べたフレンチトーストが美味しかったことを思い出してレシピを研究して考案。初年度に友人のけいちゃんが遊びに来ていた時、試作してみたフレンチトースト。その場でけいちゃんが、折り紙を爪楊枝に巻いてSaroと手描きした、小さな旗をフレンチトーストに立ててくれたことで、人気メニューがぴたりと完成した。

 最初の年は箱入りで育ったチョビ、成長と共に部屋の中に篭っているのは窮屈になって、だんだんと宿の猫、看板猫としての素質を発揮していく。ある時、何日かご飯を食べた形跡はあるのに姿が見えなくて、どこにいるのかと心配していたら、一人旅の女の子が「あっ!私の部屋にずっとチョビちゃんいます!」という事もあった。そしてお水が飲みたい時には、廊下にある水道の蛇口をお客様に捻って出してもらう技も身につけた。ニャンと呼び止め、蛇口のところまで誘導していた。宿がスタートして2年経った頃に、トシくんが島を離れる事になって、チョビは正式にSaroの看板猫となったのだ。宿を閉じるまで看板猫をその後も2年務めて、引退後は僕の母親と実家でのんびり暮らしたが、現在のマンションに越してからは、僕が養子になった高齢姉妹のケアに専念、今は家人と仲良しである。とにかく人に寄り添う姿は、宿時代に身につけた処世術なのであろうか。

時々、懐かしく思って食べ頃を過ぎたパンを浸して焼いている。チョビも、良い香りが漂って来ると、真丸な目をして覗いている。チョビがバター好きなのは、きっとこのフレンチトーストの香りを嗅いで育ったからかも知れないね。今夜漬け込んで明日の朝は、一緒に食べようね!

宿を営んでいたころの写真 知る人ぞ知る人気の宿でした。

【フレンチトースト】

材料(2枚分)
食パン 2枚
卵 3個
牛乳  400cc
砂糖  50g
バター 大さじ1~2(お好みで)
オリーブオイル 少々
季節の果物 (写真はバナナ、キウイ、オレンジ)……適宜
メープルシロップ (または蜂蜜)……適宜

作り方
1 卵、牛乳、砂糖をよく混ぜ合わせたものを万能こし器などでこし、食パン2枚が丁度入るくらいのバットに入れて、パンを一晩漬ける。出来れば、途中で一度裏返す。(夕食の支度や後片付けの時に準備しておくと楽チンです)
2 フライパンを弱めの中火にかけ、バターを入れ、パンを入れて両面をじっくりと焼く。(焦げそうな時にはオリーブオイルを加える)
3 食べやすく切った季節の果物をのせ、メープルシロップをお好みの量かけてどうぞ。

麻生さんのアルバムから:(上)新島で生まれたチョビさん。お客様をお迎えする看板猫でした。(下)宿のあった新島の海と空、そしてフレンチトーストのパンを買った「かじやベーカリー」の袋

→次回に続く (5月13日火曜日公開予定)

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