ずっと食べられなかったみかん

冬のおいしい果物、みかん。麻生さんはこのみかんを長い間食べられなかったそうです。
思い出は、それが強烈な悲しみであればあるほど、五感に刻み込まれてしまうもの。麻生さんがみかんを食べることができなくなったのも、お父様の突然の死という恐怖が、みかんがトリガーとなって蘇ってしまうからだったそう。時間がたって癒されることを日薬(ひぐすり)などといいますが、この一遍は人薬(ひとぐすり)、という言葉さえ出てくる、嵐のち晴れ、のお話です

著者紹介
麻生要一郎(あそう よういちろう)

料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴った、エッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊の著書を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数。2024年は3冊目の書籍「僕のたべもの日記 365」(光文社)を刊行。また、最新刊は当サイトの連載をまとめ、吉本ばななさんとの対談を掲載した「僕が食べてきた思い出、忘れられない味 私的名店案内22」(オレンジページ)。

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撮影/小島沙緒理

 19歳の誕生日を1995年1月18日に迎えた時、僕の人生には希望ばかりが満ち溢れていた。その4日後23日の夜のこと、僕と母の運命は一変した。

その時、僕は大学浪人中で母とテレビを観ながら、大好きなみかんを食べていた。母は会社の仕事も少し手伝っていたけれど基本的に専業主婦、父は建設会社の2代目として、大正生まれ戦中派の創業者の祖父と考え方の違いに葛藤しながら社長になった父は、一人息子の僕をグローバルな視点の経営者に育てたかった。「将来を見据えて、アメリカか中国へ留学したらどうか?」と言われ、僕はアメリカへ留学に行く事を決めて、その準備に忙しかった。そして「若い時には好きな仕事をして、オンリー1を目指して頑張って欲しい。そして、要一郎が継ぎたいと思った時に継げる会社になるようにしておくから。」そう、約束したのだった。会社の事で忙しくていつも不在だった父と人生で初めて進路について話し合って、それまでのわだかまりが雪解け、未来に向かって思いを一つに父と子が一番幸せな時だった。

 2つ目のみかんに手が伸びた時に突然、玄関のチャイムがけたたましく鳴った。もう待っていられないとばかりに、ドンドンとドアを叩く音までする。時間は22時過ぎ母と2人で、驚きと恐怖を感じながらドアを開けると、父の親友の山ちゃんが「博(父)が大変だ!」と青褪めた顔で言う。続いて、父が玄関に担ぎ込まれた。新年会の途中で、具合が悪いから帰ると馴染みの代行車を呼んだが、いつもと様子が違うと不安を感じて、山ちゃんに同乗を願ったそうだ。玄関に横たわる父は、大きな高いびきをかいていた。誰の作品だったかはもう忘れてしまったけれど、小学校の国語の教科書に人が亡くなった時の描写に“高いびきをかいていた”とあったのを思い出して、僕は口には出来なかったが、父はもう助からないのかも知れないなと咄嗟に感じた。とにかく病院へ行かなくてはと、慌てて救急車を呼んだ。

 しばらくして救急車が到着、搬送先が決まり、僕たちも同乗し病院へ向かう事になった。当時は携帯電話も今のように、皆が持っている時代ではなかった。父は持っていたけれど、母も僕も持っていない時代。騒ぎに気付いて出てきてくれた、隣の家のおばさんが、父方の祖父母に電話をしてくれる事になった。母方の祖父母は、高齢だった事もあり、状況が落ち着いてから連絡するからと母は言っていた。サイレンを派手に鳴らしながら、救急車は夜の道を進んだ。本当は速いはずなのに、見慣れた水戸の目抜き通りの景色が、ぼんやりとスローモーションのように見えた。父は酸素マスクを付けて、隣に座っている母は目に涙を浮かべながら、それを必死に堪えている様子だった。

 集中治療室に、祖父母と叔父家族と、僕らが父を囲む重い空気の中で医師が臨終を告げた。威厳のある祖父が見たこともない様子で、涙を流していた。病院の集中治療室から出ると、外には会社の役員、新年会に来ていた父の友人達が既に集まっていた。様々な手続きの為、母と祖父は病院へ残り、しばらくしてから僕は叔父と祖母と自宅へ戻った。もう自宅には、管理職の社員や久しぶりに会う親戚の方や葬儀社が待機して、和室には祭壇が出来ていた。祖父と母が帰宅すると、役員と管理職が集結して、会社の今後についての会議が開かれた。会長から、父が営業をかけていた案件は「亡き社長のメンツで、何としても全て受注すべし」と言う大号令がかけられた。もちろんその後の各自の努力により、案件は全て受注に至った。僕と母は悲しみに暮れる間も無く、その感情もどこかへ置いてきぼりにしないと着いていけないような状況で、大きく深い渦の中に巻き込まれて行った。45歳と言う若過ぎる父の死を、それぞれの立場や関係性の中で受け止めていたのだと思う。悲しさよりも、メンツが大事なのかと思いながら、ふと目をやると食卓の上には、さっきの食べかけのみかんがまだ転がっていた。

 それ以来、僕は好きだったみかんを食べるのをやめた。あの時の感情が蘇ってくるから。しかし自ら選ばなくても、舞い込んでくるのがみかんである。誰かにお土産でもらったりすると、包丁で周りの皮を切り落として半分に切って食べた。たくさんある場合は、ミキサーに放り込み跡形もなくジュースにする。味は好きなのだから、ジュースにするのは好都合。もう、みかんを普通に食べる事は絶対にないと思っていた。

 父ばかりでなく、僕が38歳の時に母も乳癌の再発で亡くなり、家族がいなくなり愛猫チョビを抱えて引っ越してきた今のマンションで、大家さんである高齢姉妹の養子になった。

彼女達の暮らしていた頃の5階の部屋は、昭和の途中で時間が止まってしまった印象で、その部屋を見た友人達は時空が歪んでいると言った。かつては人がたくさん出入りしていた賑やかな家だったけど、一家の中心だったお父さんが亡くなって、周りも皆高齢化が進み、人の出入りが少なくなった頃、姉妹二人はもう時間を止めたのだと思う。具体的に言えば、世の中との関わりを断ったのだろう。僕とチョビの登場で、久しぶりに時間は動き出したが、正確な時間は掴めずに時空は歪んだままだった。認知症とパーキンソン症候群で施設に入っていた妹が亡くなった後、姉も骨折した末に全く歩けなくなり施設に入った。とうとう、5階の部屋は誰も暮らす人がいなくなってしまった。7年の間、その5階と自分が暮らした2階の部屋を行き来し、在宅介護もあり大変な事もたくさんあった。何年かの間は、家から離れる事が出来ない時間が続いていた。勿論楽しい記憶ばかりではない。知らない者同士が、急に家族になるのだから、当然に諍いだって起きた。この部屋をリノベーションして住めば、広くて陽当たりも良いと皆は簡単に言うけれど、僕にとっては頭や心から離れない記憶や残像がたくさんある、それが晴れない限りは…と思っていた。

 そんな事に悩んでいた頃、マンション1階の事務所スペースの部屋に空室が出来た事で、以前から知っていた、ささやんにその部屋を使わないかと話を持ちかけた。彼は、内装デザインと自らの手で形作る施工までを手がけていて、とても良い仕事をしていた。その姿勢に、何か惹かれるものがあったし、事務所があったら何かと便利だろうと思ったのだ。入居してからは、ごはんを一緒に食べる機会が増え、ある種の共同生活がスタート。僕が姉妹の部屋の話をすると、何か手伝おうかと様子を見に来てくれた。その時、ここに住んだら良いのにと彼も言った。僕が、正直な思いを話すと、彼は家具をどけて壁の一部を剥がして、コンクリート打ち放しの真っ新な躯体の状態を見せてくれた。不思議な事に、僕の頭にこびり付いていた何かも一気に剥がれ「あ、ここに住みたい!」そう思う事が出来た。そのあとは一度、何もない状態にしてから考えようと不用品搬出や解体工事の日程を決めた。プランは、全てささやんにお任せした。信頼できる友に任せるのが、一番。

 夏の暑い工事期間を終えて、秋に我が家は無事に完成した。あの鬱蒼とした部屋がまるで嘘だったかの様に、すっきりした部屋に生まれ変わった。姉妹が住んでいる頃から、僕がこの部屋で一番好きなのは眺望の良さ。大きな窓からは、すぐ側を走る首都高がよく見える。夕方になると、交通量が増えて、テールランプが連なる感じが好きだ。窓から見える景色を眺めていると、あっという間に1日が過ぎて行く。朝の光、ビルの向こうに見える夕焼け。陽の光と共に家の中を移動しながらチョビは、気持ち良さそうに昼寝をしている。きっと姉妹もすっきり見違えた我が家を、嬉しく思っているだろう。

 家作りを通じて、ささやんとは随分と親しくなった。僕が本音を素直に言う事が出来て、ちゃんと対等でいてくれることが僕にとっては嬉しい。一緒に色々な所へも旅に出かけた、彼の故郷である札幌で思い出の地を巡った旅も、ルーツを探る事が出来て心に残っている。先日、横浜にあるFM局の番組に出演する時も、車で送迎をしてくれて、まるでマネージャーのように現場まで付き添ってくれた。家族が誰もいなくなり落ち込んだ日の事を思えば、その事がどれだけ嬉しくて、心強いことなのか。絶対的な信頼関係で結ばれていると、少なくとも僕は思っている。そんな思いの中で、誰かにもらったみかんを食卓に置いていると、ささやんが「みかんが好き」と、美味しそうに食べていた。僕も話しているうち、自然に手が伸びて、気がついたら久しぶりに皮を剥いてあの夜のようにみかんを食べていた。悲しい気持ちにならなかったし、その反対で嬉しい気持ちになった。

 あの日から30年近くの月日が経って、僕はやっと過去を克服する事が出来たのだと、食べ終わったみかんの皮を眺めながら思った。それは、今がとても充実しているからに他ならない。このマンションは姉妹から受け継ぎ自分のもの、でも2階の住まいや1階のアトリエはどこかで借り物のような気がしていた。新しい家の存在は、僕に精神的安定をもたらし、過去と対峙する力を与えてくれた。ささやんに出会っていなかったら、この部屋はまだ手付かずのままだっただろうし、相変わらずみかんとの関係性も冷え込んだままだっただろう。果物売り場には大きさや品種、産地別とみかんがたくさん並んでいる、小ぶりでギュッと実が詰まったもの、大きくてパサっとした果実感、ほどほどに力が抜けた今食べたいのは大きな果実。みかんには、人生に寄り添うような味わいがあるような気がしてならない。さて、美味しいみかんを買いに出かけよう。

お父様の形見の時計