母に伝えた切り昆布の煮物

料理家であり、文筆家である麻生要一郎さんの自伝的たべもの回想「酸いも甘いも」。
第三回は、麻生さんの亡くなったお母様と、その大切な人にまつわる話。友達のおばあさんから教わったレシピを麻生さんがお母様に伝える、その過程に起こる状況の変化や心の動きの描写に思わず引き込まれてしまいます。大切な人を思いやることについて心あたたかく考えることができる今回の回想、どうぞお楽しみください。

著者紹介
麻生要一郎(あそう よういちろう)
料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴った、エッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊の著書を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数。2024年は3冊目の書籍「僕のたべもの日記 365」(光文社)を刊行。

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撮影/小島沙緒理


僕の大学受験は、希望校が落ちて、滑り止め校だけが合格だった。そのまま進学しようかと思ったけれど、父は「浪人して良いから、もう一年頑張ってみなさい」と言ってくれた。
建設会社の2代目社長だった父親は、僕をもっとグローバルな人材に育てたかったらしい。予備校に入る時に、アメリカか中国のどちらかに留学したらどうかと提案されて、僕は迷わずアメリカへ行く事を希望して2人で動き始めて、いよいよ手続きを進めようとした矢先、脳梗塞で父が急逝してしまった。

会社の創業者である祖父に、父と決めた僕の進路について話すと「建設会社の跡取りがアメリカの大学に行って何をする、技術が分からなければ会社に入っても使い物にならない!」と叱責を受けた。しかし高校時代から既に文系の授業を選択していたから、理数系は駄目。そう伝えると、大学ではなく建築の専門学校へ行けと言われ、僕に選択の余地はなかった。グローバルに生きろと言われていたのが急に萎んでしまった僕の人生、父が亡くなった直後の母を一人暮らしにしないで済んだのは、地元の専門学校へ進学して良かった点である。

同級生は工業高校出身者が多くて、授業で頻繁に使う関数電卓を問題なく使いこなしているのに、僕は電卓すらまともに使えない。先生が言う、サイン・コサイン・タンジェントが何なのかも分からない。自由設計の課題で「ウィークエンドハウス」という名前で週末を過ごす為の家を設計すると、先生からはコンセプトや発想は良いけれど、図面と構造が全然ダメだという評価を受ける。測量の実習も、何をしているのか最後まで全く分からなかった。

常に劣等感が付き纏ったが、電卓の使い方を教えてもらい、何が何だか分からない質問をしているうちに、嫌々通い始めた専門学校でも、少しずつ友達が増えた。一面に田畑の広がる下妻という街に住む、目がくりっとした草間君の家に遊びに行った時、彼の両親は共働きで、おばあちゃんが夕ご飯を作ってくれたのだが、食卓に並んだ料理が素朴でとても美味しかった事に感激した。その時に「切り昆布の煮物」を初めて食べて、じんわりとあたたかい気持ちになった。帰り際、友人に頼んでおばあちゃんから作り方を教わった。それ以来、実家や宿、今の暮らしになっても、僕の十八番となりずっと作り続けている。

僕が家業の建設会社に入社して、会長だった祖父も亡くなって自分の力で歩み始めた頃に、自ら営業活動に奔走して指名競争入札にも打ち勝って受注した大きな住宅工事があった。しかし工事が難航して3回も工期を延長、厳しい施主からの信頼は0でなす術がなかった。若い現場担当者を励ましながら、どうにか完成したが、最終の残金と追加工事の代金がもらえるか怪しいところだった。溜息混じりに残金の請求書だけ作ったが、届けに行きたくない。施主の会社に行くと、打ち合わせスペースまでの長い廊下を、身長180センチ、いつもアルマーニのスーツを着こなす70代の社長が、こちらへ歩いてくる様子がとても怖かった。彼の姿が見えた瞬間から、「スターウォーズ」のダースベーダーのテーマが頭に流れ始める。もういっその事、フォースの力で銀河系の彼方へ投げ飛ばして欲しいと何度も思ったのだ。会社の席で請求書に印鑑を押しながら悩んでいた時、ふと閃いた。彼は離婚して現在独り身、さすがに女性には優しいのではないかと。僕の母は美しく、彼のこともよく知っているし、彼の事業の一つである外車のディーラーで車を買っている。地鎮祭の時にも仲良さそうに話していたしと頼み込むと、母は仕方ないわねえといった様子で黒いボルボのワゴンに乗って出かけて行った。

ところが先方に着いたはずの時間から、3時間経っても母からの連絡がない。僕は心配して自宅で帰りを待っていたが、作戦は失敗したのかと思った時、母が帰宅。「週明けに全額払ってくれるって。あ、追加工事の請求書もあるはずだから、それも下さいと言っていたわよ。」と言う、上手くいったようだけれど、何か様子が変である。どこかウキウキしているのだ。一先ず良かったと安堵、会社に戻り追加工事の請求書を作ろうと思って席を立つと「明日、彼と夕食を食べるのよ、その時に請求書持って行くわね」と母が言う。一体この展開は何だろうと、不思議な気持ちになりながら、翌日母に請求書を託した。食事から帰ると、母はケーキの箱を持っていた。「要一郎君にお土産、だそうよ」と。工事終盤には声を荒げられる事もあったのにとケーキを食べながら思い出した。母を介して、関係の修復と調整を彼と僕は時間をかけて行った。彼は三越の外商さんが、アルマーニのスーツを季節ごとラックに引っ掛けて届けに来るようなお得意様だった。2人で日本橋の本店へ買い物に行った時「何でも好きなものを買ってあげたい」と言われて「何もいらない」と、母は答えたそうだ。そのやりとりは、母が亡くなったあとに、母の友人から聞いたこと。そんな事を言われたら、つい何かしら欲しいものを探して言ってしまいそうだけれど、母は気前が良くて、信頼した人への情が深い彼のことを、最後まで心配していた。せめて自分は、そういう負担の対象にはなりたくないと思っていたのだろう。

家業の会社を離れて、僕が島で宿をしている時代は、春から秋の営業が終わり地元へ帰ると、彼が決まって地元のホテルの中に入っている“四川飯店”に個室を予約。親子2人ゆっくり食事を楽しんで欲しいと、母の好みにあったコースがオーダーされていた。食事をして帰る時、お土産のお菓子、母への花束が用意してあってホテルの方がわざわざ席まで届けてくれる。今年は一緒にどうですかと伝えても、軽々しく交わろうとはしなかった。そういうところに彼の、叩き上げで自分の力で生きてきた、どこか野生的な強さや孤高な感じをひしひしと感じて、いつしか母も僕も彼を心から信頼していた。僕といる時よりも、父といる時よりも、彼といる時の母は本当に幸せそうだった。それが僕は何より嬉しかった。

ある時、僕が実家で冷蔵庫に作り置いた切昆布の煮物を、母が彼に食べさせると、「子供の頃に、母親が作ってくれた味がして懐かしいなあ」とポツリと言ったとか。その話を聞いた時に初めて彼も人の子であることを感じた。「切昆布の煮物の作り方を教えて欲しい」と、母から言われた。“好きな人に料理を食べさせたい” そんな母に伝えたレシピです。

<切り昆布の煮物>
・乾燥切り昆布 1袋(40g)
・さつま揚げ 4枚
・大豆(茹でたもの) 100g
・にんじん 1本
・酒 80cc
・醤油 大さじ1/2
・だし 250cc
・ごま油 大さじ1

作り方
1 切り昆布は水で戻しておく。(生の場合には水洗いしておく)にんじんは皮を剥いて、千切り、さつま揚げは薄切りにする。
2 鍋にごま油を引いて、にんじんを炒める。にんじんに火が通って来たら、切り昆布の水を切って鍋に入れて、よく炒める。さつま揚げと、大豆も加えて炒め合わせ、酒80ccを加えアルコール分をよく飛ばしたら、出汁200ccと醤油を加えて、弱火でじっくり煮込んで煮汁がほとんどなくなる状態になったら完成です。
※わざわざ材料を買い揃えなくても、冷蔵庫にあるもので工夫して作ってみて下さいね。甘味が好きな方には味醂を加えても。

今は、母も彼も天国にいるけれど、次に会える時には今度は遠慮なく3人で食卓を囲んで、今生の別れでは伝える事が出来なかった「ありがとう」を2人に伝えたいと思っている。