カンコンばあばの炒飯

料理家であり、文筆家である麻生要一郎さんの自伝的たべもの回想「酸いも甘いも」第二回は、麻生さんが人生で初めて作った料理にまつわる話。その料理は“大好きなおばあちゃん”が作ってくれた炒飯です。一読して気づくのは、家の料理はおいしい、まずいよりも、作ってくれた人の言葉にならない、日々の小さな祈りや希望を食べるものなのだということです。そして、その記憶はずっとなくならないものだということも。

著者紹介
麻生要一郎(あそう よういちろう)

料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴った、エッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊の著書を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数。2024年は3冊目の書籍「僕のたべもの日記 365」(光文社)を刊行。

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撮影/小島沙緒理


スーツやシャツを仕立てるテーラーを営んでいた母方の祖父母の家は、水戸の中でも古い街並みが残る下町にあった。風変わりな家でお店と工房が手前、住まいが奥側と別々に建っていた。2つの建物を“橋”というと聞こえは良いが、ちょっと丈夫な板を渡したところへ屋根をかけて、行き来が出来る様にした造りが子供の好奇心をくすぐった。その橋を渡るのが、まるでインディージョーンズのワンシーンのようで楽しかった。

お店から出て、左側に少し歩くと桜川という川が流れていて、その土手を歩くと季節の移り変わりを感じる事ができて楽しかった。鴨が気持ちよさそうにすいすいと泳いでいたり、魚がいたり、草花が咲いていた。僕が一番好きだった、春になると土手一面に可憐な青い花を咲かせる草花の名前が、イヌノフグリだと知ったのは、随分大人になってからのことだ。もう少し、可愛い名前はなかったのだろうか。お店の右側へ少し歩いたところには線路が通っていて、祖母におんぶをしてもらい、行き交う電車を眺めるのが好きだった。カンコンカンコンと鳴って開閉する踏切の様子が楽しくて、次の電車が来るまでここにいると甘えたことを覚えている。祖父はテーラーの仕事を引退しても、毎日スーツ着てベレー帽を被っていたので帽子じいじ、祖母は踏切にちなんでカンコンばあばと呼んでいた。人を悪く言う事がない、優しい祖父母だった。実家から近いこともあり、小さな頃に母が忙しい日にはよく預けられていた。

資材も満足になかったであろう終戦後に建てられた家の薄暗い台所で、料理上手な祖母がお昼によく炒飯を作ってくれた。小さな頃の僕は、食わず嫌いが多かった。お肉も牛肉は苦手、魚の刺身は駄目で焼き魚だけ、野菜に関してはじゃがいもときゅうり以外、好きではなかった。黒い鉄のフライパンで小さく切った野菜をしんなりするまでよく炒め、ごはんや卵とツナを炒めて、鍋肌に醤油を落とした時の香りが良かった。その炒飯は、僕が少しでも野菜を食べるようにと願う祖母の祈りでもあった。嫌いなピーマンが入っている事は知っていたが、僕は美味しい、美味しいと食べていた。

一人で留守番が出来るようになると、だんだん祖父母の家に行く機会は減っていく。ある日、思いがけず母の帰りが遅くなった日のこと、小学3年生の僕はお腹が空いてしまったのである。台所に立つ、冷蔵庫には余りご飯があったし、ツナもある、卵、玉ねぎ、にんじん、大嫌いなピーマンも見つけた。祖母の姿を思い出しながら、小さく野菜を切る。嫌いなピーマンだって、入れないといけない気がしたから、細心の注意をはらって渋々特に小さく切った。フライパンに油を入れて火をつけると、適当に放り込み炒める。完成した!とお皿によそうタイミングで、取っ手の鉄の部分を触ってしまい火傷した。しかし火傷したら流水で冷やすことだって、祖母からちゃんと習っている。祖母のようには出来なかったけど、似たような味の炒飯が完成した。その炒飯こそ、僕がはじめて一人で作った料理。

食べ終わった頃に、母が帰宅した。家で一人の時に火を使わないようにと言われていたから、僕は怒られると思った。母が台所へ行って料理をした痕跡を発見した時、僕は素直に謝った。すると母は屈んで「帰りが遅くなってごめんね、何を作ったの?」と言うので、祖母がいつも作ってくれていた炒飯を作ったことを話したら「偉かったね、すごいね!」と褒めてくれた。火傷したことがバレないよう、少しヒリヒリしていた手を後で組んでいると、その手を優しく掴んで何も言わずに手当てをしてくれた「私のせいだね」と言いながら。手当が終わると母は「要君が火傷しない、使いやすいフライパン買いに行こうか」と、そのままホームセンターへ連れて行って新しいフライパンを買ってくれた。料理を好きに作っていいよと、お墨付きを頂いたようなもので、料理の可能性がぐんと広がった。後日、母が祖母に、僕が炒飯を作った話をしていた時の、祖母の嬉しそうな表情をよく覚えている。

でも時代的に男の料理と言えば、日曜日に焼く豪快なステーキ、石釜で焼いたピザ、手際も鮮やかに蕎麦を打つと言ったような趣味性が強いものだった。お湯を沸かすことすらままならない父親は、口には出さないものの、その様子をあまり快く思っていない感じがした。友達はクマのぬいぐるみで、趣味が料理では、建設会社の後とりとしては不安だったのかも知れない。そう言う空気が流れると、母は「出来ることが増えるのは良いことだから」と言っては、父を牽制してくれていた。小学生の頃だし、毎日料理を作るわけではないけれど、カレーやシチューだとか、簡単なレパートリーはいつの間にか増えていた。

当時は、料理をすることが仕事になるなんて思いも寄らなかった。

毎日誰かがやって来ては、ごはんを食べて楽しかった! 美味しかった! と帰っていく。でも、見送った後に一人、何て凡庸なもてなしだったのだろうと思っては反省している。曲がりなりにもプロだと言うのなら、もっと手をかけずシンプルに、ああこんな食べ方いいね……みたいな斬新な発見があったなら食べる方も嬉しいのではないか。きんぴら、おひたし、煮っ転がし、グラタンと刺身が登場して、唐揚げ、お腹いっぱいのところへ〆に巨大なおにぎりがごろごろと出てきて、最後の締めだから少量で良いのに並々と汁物が出てくる。そう思ったところで、それを折り返すようにまた考えていく。量が丁度良くて、組み合わせも頷くような真っ当な、そんなお店はたくさんあるかも知れない。全体の組み合わせがヘンテコで、野暮ったい形の大きなおにぎりだからこそ、皆がほっとして食卓を囲んで和むのだろう。これで良いと、重たい鍋を洗いながら思う時、いつも祖母が優しく微笑んでくれている気がする。

父方の祖父が社長の職を父に譲り、会長に退いた矢先に父が急逝、それから少し経って僕が会社に入った。総務部の一社員として入社、やがて総務と財務を担当する役員に昇格した頃には、毎月会社の資金繰りに奔走していた。母方の祖母はコツコツと貯めた年金から宝くじを買って「もし当たったら、全部要君にあげるの。大きな会社の資金繰りでいつも大変な思いしているからね。それが私の今の願い。」と、母によく言っていたそうである。現実的には、もちろん宝くじは当たらなかった。でも、祖母がそういう気持ちでいてくれたことは、挫けそうになった時の心の支えとなった。どこまでも優しかった。

「カンコンばあば」こと、麻生さんの母方のお祖母さまと初節句の時の写真。

僕が毎日、ふと誰かの顔を頭に浮かべて「ご飯食べたかな?」「ちゃんと眠れているかな?」と思うのは、祖母の優しい気持ちが、僕の心にしっかりと残っているからじゃないかと思う。最後に食べたツナの炒飯がいつだったのかはもう覚えていない、少し落ち込んだときや、嬉しいことがあったとき、無性に食べたくなって、自分でこっそり作っている。僕のつくる料理を、いつか誰かが懐かしく思い出してくれるだろうか。

<カンコンばあばのツナ炒飯>

材料(2人分)*野菜はすべてみじん切り
・ツナ缶詰(80g入り) 1缶   
・ご飯 400g
・玉ねぎ 50g
・ピーマン 2個
・にんじん 30g
・しいたけ 20g
・卵 2個
・酒 大さじ1
・醤油 大さじ1
・油 大さじ1

作り方
① ご飯は温めておき、野菜はみじん切りにして、ツナは缶汁を切っておき、卵は割りほぐしておく。
② フライパンに油を入れて、温まったら野菜を炒め、しんなりしたら卵を流し入れ、ご飯とツナ、酒を加えて炒め、火を入れながら全体を馴染ませていく。鍋肌から醤油を加え入れたら、全体をよく炒めて完成。丸く盛りたいときは茶碗に入れて皿をかぶせ、皿ごとひっくり返して茶碗をはずす。