姉の冷やし中華のある夏

美しいお弁当や、食べる人の心をおだやかにするレシピが人気の料理家・エッセイストの麻生要一郎さん。その新連載は、さまざまな食べ物にまつわる回想でつづる半生の自伝です。思い出には辛いことも楽しいこともあるけれど、酸いも甘いも味の内、と何事も調味料やスパイスにして、人生を彩り豊かにおいしくしている麻生さんの思い出、じっくり味わっていただければ幸いです。

著者紹介
麻生要一郎(あそう よういちろう)
料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事と、さまざまな知人・友人たちとの交流を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴った、エッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊に加え、2024年は3冊目の書籍「僕のたべもの日記 365」(光文社)を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数執筆中。

麻生要一郎さんのこちらの記事もご一読を!
↓「料理とわたしのいい関係」麻生要一郎さん
https://www.wellbeing100.jp/posts/478

撮影/小島沙緒理


同じ年齢の人に比べたらずいぶん、人生の経験を積んだような気がします。そして、たくさんの出会いと別れを経験しました。楽しい時は、誰かとおいしいものを分かちあって、しかしどんなに辛い経験をした時だって、食欲が落ちることはありませんでした。思い出の情景とたべものを通じて、人生を振り返って行きたいと思います。

暑い夏の日に見かける「冷やし中華はじめました」という札に心が躍る。

神田神保町にある揚子江菜館の「五色涼拌麺」が冷やし中華の発祥と言われている。具材は、チャーシュー、きゅうり、たけのこ、糸寒天はそれぞれに山の春夏秋冬を表現、錦糸卵は山頂に積もる雪をイメージ、ほかにも、えび、しいたけ、うずらの卵、鶏団子、美しい盛り付けで外食の冷やし中華として満足感が高い。神保町に出かけた時には、ここへ寄らないと悪い気がして足を運んでいる。他にも清涼感が漂う、銀座アスターの翡翠麺も魅力的、恵比寿の龍天門の冷やし担々麺も乙である。

最近では、盛り付けに手間がかかるからなのだろうか、麺と具が別々に供される事もあるが、外食で頼む冷やし中華なら、しっかり盛り付けて欲しいと思う。家庭では「今夜は冷やし中華でいいや」なんて食べ手に言われがちな存在ですが、どっこい手間のかかること。たかが冷やし中華、されど冷やし中華なのである。

さて、我が家の養親の姉妹、料理を作るのは主に姉の役割であったが、彼女の作る冷やし中華は絶品であった。ただし、適正な量であればと付け加えておく。ことの始まりは、養子になって3年位が経ったある夏の日、寝たきりになった妹に作った冷やし中華の刻んだ具材の残りがあったのだろう「あなた冷やし中華食べる?」そう言われて、一人前に盛り付けられた綺麗な一皿が食卓に供された。暑い夏の日でお腹もすいていた事もあって、ぺろりと食べてしまった。彼女の錦糸卵はちょうど良い具合に焼けている、薄いけどふっくらして、程よい焼き色もついて食欲をそそる。家庭では、焼き色がないのは少し白々しく感じてしまう。「美味しかった!」と言うと、彼女は目を細めて上機嫌だった。「また作るから、買い物に行ったら細い麺を買っておいて、どうせ使うから多めに買っておいてね」そう言われて、3食入りと表記のあるものを2パック購入した。

数日後、姉が「明日、あなたお昼に冷やし中華食べる?」と聞かれたので頷くと、姉も笑顔で頷いた。翌日の昼頃に姉宅へ行くと、食卓に置かれた大きな鉢に麺がうず高く盛り付けられている。これから誰かを呼んでパーティーでも催すというのか、一体どうしたことなのだろう、先日食べたあの綺麗な一皿はどこ? 「あなたたくさん食べるから」と鼻歌混じりに言いながら、冷蔵庫から大きな鉢に入った、ご自慢の錦糸卵にハム、きゅうりにトマト、玉ねぎのスライス、蒸し鶏がどどーんと出てきた。戸惑いながらも僕はどこか引き攣った笑顔で、その光景を眺めていた。最後にたれをドンと置くと「全部食べんのよ!」と言われ、僕は覚悟を決めた。

食材は厳選された素材であった。卵は姉の友人が養鶏所から送ってくれている、きゅうりとトマトは京都の知り合いから届いた賀茂野菜。ハムは麻布のニッシン、鶏もも肉は人形町の鳥近。どれも贅沢な品である。ありがたいことこの上ないのだが、とにかく2人分とは思えない量。ご機嫌を伺いながら事情聴取をすると、各食材の内訳はこうである。

中華麺 6玉(全部茹でた)
錦糸卵 卵6個分
きゅうり 2本
トマト(大) 2個
玉ねぎ(大) 1個
ハムの薄切り 300g(特用)
蒸し鶏 2枚

と言っていた。特に作りすぎた、という認識もないようだった。こういう時、普通の家庭なら「ちょっと量が多かったかしら、あまり無理しないでね」と、言ってもらえそうだが、そんな優しい言葉は当家にはない。食べなければ、叱られた上にしばらくの期間機嫌が悪くなるのだ。それだけは絶対に避けなければならない、食べ過ぎて僕の調子が悪くなったとしても、機嫌が良い方が絶対に良い。とは言え、流石に気が遠くなりそうになりながら全部食べた。

この話をすると、量が多いと丁寧に伝えた方がとおっしゃる方もいる。そんな普通な事が通用するならば、彼女たちはもっと普通な人生を歩み、今頃大きくなった孫と遊んでいるだろう。そうであれば、僕を養子に迎えていないと思う。だから、これは僕の試練であり、信頼を勝ち得る為の負けられない戦いである。僕はそうやって、これまで生き抜いてきた。しかし、この試練は翌週再び訪れた。人は経験から学び成長するものだ。僕はいつも持参する小さなトートバッグに、ファスナー付き保存袋を複数枚備えて決戦に向かった、パンツはポケットが多いカーゴパンツを選ぶ。麺や具材を食卓に運びながら少しずつ保存袋へ移して量を減らしていく、食べながら、お茶や辛子が欲しいと言いながら用事を頼んで、その隙に保存袋にしまった。その繰り返しにより、適量を食べるという戦術に出た。帰りには小さなバッグもカーゴパンツのポケットもパンパンだ、これが見つかっては台無しなので慎重に、愛猫チョビが興味深そうにバッグの中を覗いていた。

夏が来ると、冷やし中華が始まってしまうのがとても憂鬱だった。姉は2年前に骨折して、施設に入ってしまったから、もうあの冷やし中華が出てくることはない。冷やし中華との戦いは、5シーズン程だったのだろうか。今は食べたくなったら、好きなお店でオーダーすれば、美味しいものが適量食べられる。だけどその度に思うのだ、これっぽっちの具なのかと。もちろん、美味しいし満足なのだけど、あの迫力はないのである。夏のワンピース姿で、咥えタバコをしながら姉が錦糸卵を焼く姿を思い出す。姉妹の家に、まだ大好きなお父さん*が元気で、たくさんの人が集まっていた頃、昭和という時代を生きる面々が、美味しいと食べたのだろう。きっと僕を通して、そんな賑やかで楽しかった時代と繋がっているのだと思った。二人で食べられる量なんて、分かっているに決まっている。準備をしているうちに色々な人の顔が浮かび、懐かしくて、気がつけば山盛りになっていたのではないだろうか。それはきっと、何十年後かの自分だと改めて思う。

*お父さん……姉妹の父親は文芸評論家であり、野球評論家としても活躍をした大井廣介(1912-1976年 本名麻生賀一郎)。著書に『左翼天皇制』などがある。

よく姉が「私がいなくなっても、あなたが何かを食べたら私を思い出したりするかな?」と、言っていた。僕は夏になる度、どんなに時が経ったとしても、きっとあのてんこ盛りの冷やし中華を思い出すに違いない。

写真上:麻生さんの養親の姉妹の懐かしい写真。犬を抱いているのがお姉さま
写真下:お姉さまが使っていた湯のみ。戦時中、地中に埋めておいたのを掘り出して使っていた。

<姉の冷やし中華>自家製特製黒酢だれで。分量は普通の4人分(笑)
材料 4人前
・中華生麺 4玉(お好きなだけ!)
 *ただし麵を増やしたらたれも多めに作る
・錦糸卵 3個分(撮影用には思わず7個分焼きました)
 *錦糸卵のコツは、一度熱くしたフライパンを、濡れぶきんにのせてちょっと冷やすこと
・きゅうり 2本 せん切り
・玉ねぎ 1個分 薄切り(水に浸して辛味をとっておく) 
・トマト 1個 薄切り
・ハム 6枚分 せん切り
・蒸し鶏(鶏もも肉1枚分) 作り方は以下参照。食べやすい大きさに切る

【蒸し鶏】
蒸し鶏は、塩少々をまぶした鶏もも肉1枚をひたひたより少し多めの水に入れて、ねぎの青い部分1本分、酒50ccを加えて、中火にかけて15分。火を止めて、冷めるまでそのままに。
*残ったスープは、冷やし中華のたれに加え、余ったらスープのベースにする。夏ならば、モロヘイヤとトマトに卵を加えたスープも良いでしょう。

【黒酢を使ったたれ】
蒸し鶏のスープ 大さじ4
黒酢 大さじ2
酢 大さじ2
ごま油 大さじ1
しょうゆ 大さじ1
はちみつ 大さじ1

盛りつけは、麺をゆでてから冷水でよく冷やして水を切り、具材をのせて、たれをかけたら完成です。お好みで辛子を添えてどうぞ。気取って作るものではないですから、ご家庭の味でどうぞ。