第六回 人温かく懐深く、居心地のよい銀座の老舗西洋料理店「煉瓦亭」(東京・銀座)

文/麻生要一郎
撮影/小島沙緒理


大正生まれの祖父が、苦心の末に建設会社を一代で興し、父に社長職を譲り、会長に退いてから患った、甲状腺癌の治療で浜松医大へ出かけた帰り道。混雑する夕暮れ時の東名高速から首都高に入った辺りで、祖父が「要君、美味い洋食を食べて帰らないか」と、ポツリと言った。

祖父は、良い店へと仕事では立場上出かけるものの、大正生まれの戦争経験者、苦労の連続の人生だけに財布の紐は非常に固かった。何度かの手術を経て、今回は独房のような病室での放射線治療、さすがにこたえたのだと思う。普段ならば、蕎麦やうどんで済まされるが、僕への気遣いもあったのかも知れない、銀座に車で向かい、お店の前で祖父を先に降ろした。よく考えると、それが僕の初めて訪れた「煉瓦亭」だった。

祖父はカツレツ、僕はカニコロッケを食べた。おじいちゃんと孫という関係性ではなく、会長とぺいぺいの間柄、不在の間にあった報告事項も車の中で既に済んでしまっていたので、特に会話もないままぼんやりと時間が過ぎた。

テーブルに運ばれて来たカツレツを一口食べた時、祖父が「美味いなあ」としみじみ言った事を記憶している。新聞配達をしながら、東京で建築の学校へ通い、大手ゼネコンに勤務していた若き日の祖父にとっては、煉瓦亭は憧れの店だったのかも知れない。誰かとデート、或いは同僚や友人と来たのだろうか。その時は聞けなかったけれど、きっと楽しい思い出があったに違いない。

その数年前に父が先に突然亡くなり、ゴルフ三昧で悠々自適に過ごせるはずが、思いがけず始まった闘病、もう少し会社の代表として現役でいなければならなくなった事は、当時は自分の事に必死で、思いやる事が出来ていなかったけれど、今となっては、僕よりも苦しい立場だったと想像する。食べ終わって「さあ帰るか」と杖に力を入れて立ち上がる時に、祖父は珍しく笑顔を見せた。その時だけは、おじいちゃんと孫という空気が流れて、僕は嬉しかった。

それから十数年、僕は会社を離れて、すっかり取り巻く環境も変わった。しばらく訪れずにいたけれど、休日にパートナーと銀座を散策する折に出かけるようになった。僕は何でも決めるのが早く、即断即決に定評がある。飲食店でも、店員さんを煩わせないように、スマートに注文をする事を心掛けているのだが、煉瓦亭に関しては、毎回メニューを眺める度に悩んでしまう。

特に一人で出かけた時など始末が悪い、カニコロッケ一択のつもりで店の扉を押すが、席に着いてメニューを開くと、エビフライ、ロースチキン、メンチカツ、カツレツ…と頭の中がぐるぐると巡ってしまう。懐かしいさくらんぼの入った酸っぱいレモンスカッシュ、正統派な野菜サラダは必食である。しかしパートナーと出かけるとたくさん食べられるので心強い、カニコロッケ、ハンバーグ、グラタン、ハムライス、野菜サラダ、ずらりと並んだご馳走感、テーブルが賑わうのは嬉しい。

一階の常連さん向けとなっている席をお借りして、撮影をさせて頂いている間にも、改めて老舗の奥深さというものを再認識した。

ベテラン店員Sさんは、お客様を案内し、お会計も担当、我々の話にも付き合いながら、電話をとると発注の内容にも即答、他にも色々な事をテキパキ進める姿は、正にプロフェッショナル、何役もの立ち回りに感心。お隣の席には、毎週通われているという、80代の紳士が煉瓦亭四代目の木田さんと談笑しながら、美味しそうにカツレツを召し上がっていた。僕らにも気軽に声をかけて下さり「カニコロッケの取材? 僕は食べた事ないなあ、ここのカレーも美味いよ。」と言う、語り口にはこのお店への愛着が滲み出ていた。銀座というと、ちょっと敷居が高くなりそうだけど、気取りがなく下町とはまた違う都会的な程よい距離感、そしてカラッとしたあたたかな人情味が心地良い。創業128年といえば、明治、大正、昭和、平成、令和と、戦争や震災も乗り越えて、代々蓄積されて来た懐の深さなのだと感じた。

日本の洋食の元祖と言える「煉瓦亭」、今となっては定番となっているメニューや様式も、ここが始まりと言うのも数え上げたらキリがない。そして洋食は実に手間がかかる料理だ、コンソメやデミグラスソース、他にも色々、伝統の味を守る攻防に頭が下がる。街の洋食店が消えていくのは、やはり手間が大変だという事をよく耳にする。食べるのは一瞬、だけどその為に、どれだけの手間がかかっているのか、もっと味わって食べなくてはと思った時には、最後の一口を飲み込んで、皿はすっかり空になっていた。

僕がやがて80代になって、一階の席に通してもらいながら「昔の銀座はこうだったんだよ」なんて話が出来るように、次の五代目に期待を抱きながら、もっと通わねばならないと思っている。次に行ったら何を食べようかと、メニューを改めて思い返しながら、普段頼まない仔牛のカツレツにも惹かれている。しかしオーダーをする瞬間まで、思い悩むのも、また楽しいものである。皆様も、ぜひ老舗の洋食をご堪能下さい!


煉瓦亭

上:2階客席。木のぬくもりが感じられ、柔らかい光の中で落ち着いて食事ができる。
下:ハムライス 大きなハムが載っているのがうれしく、かわいらしい一品。これも麻生さんの好物。

創業明治28年(1895年)、現在の松屋銀座の場所で創業。現在の店舗は昭和39年(1964年)に建てられたもの。
今多くの店や家庭で、とんかつに当然のように付け合わされる「せん切りキャベツ」も、この店が発祥。「そもそも、人手不足が発端なんです。日露戦争当時、コックが徴兵されて、それまでの付け合わせの温野菜ができなくなって、キャベツの酢漬けからヒントを得て生のキャベツをたっぷりと添えたんですよ。そしたらそれが好評で、広まったようです」と、現社長、4代目の木田浩一朗氏。木田社長から聞く「銀座・煉瓦亭噺」は銀座の街の変遷や洋食の歴史に煉瓦亭が果たした役割など、興味が尽きず、聞き飽きない。
煉瓦亭の「カツレツ」はとんかつ屋のそれとはまた一線を画すもので、しっかりとした下ごしらえが肉のうまみをきっちり引き出しており、一口目から「おいしい」という言葉がしみじみ口から出てしまう。

カニコロッケ3000円、元祖ポークカツレツ 2600円、ビーフシチュー5000円、野菜サラダ1600円、ハムライス2500円他
(*諸般の事情により、2023年3月現在、カニコロッケは一時休止中。復活予定ではありますが、ご所望の方はご来店前に煉瓦亭に直接お問い合わせください)

住所:東京:都中央区銀座3丁目5-16
営業時間:月〜土曜日 祝日 
     11:15~15:00(L.O.14:00)
     17:30~21:00(L.O.20:00)
定休日:日曜日
電話:03-3561-3882


麻生要一郎(あそう よういちろう)
料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴ったエッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊の著書を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数。今年新たな書籍も刊行予定。

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