自分の“違和感”とはどのようにつき合うべきなのでしょうか?(ゲスト:絵本作家・五味太郎さん)

これまでになかった視点や気づきを学ぶ『ウェルビーイング100大学 公開インタビュー』。第2回は、絵本作家の五味太郎さんです。五味さんが感じる、現代の“違和感”とは? 台本なし、忖度なしの本音トークで、笑いの中にもハッとする指摘があり、私たちが今、抱えている問題を考える機会になりました。

聞き手/ウェルビーイング勉強家:酒井博基、ウェルビーイング100 byオレンジページ編集長:前田洋子
撮影/原幹和
文/中川和子


そもそも“違和感”は「badじゃない」

酒井:本日のテーマは「自分の“違和感”とはどのようにつき合うべきなのでしょうか?」ということなんですけれど、五味さんご自身は、どんなときに違和感を感じられますか?

五味:「違和感だらけで生きてきた」ってところがあるから、あえて言えば、違和感の調整イコール人生という感じかな。違和感の調整。それは子どもの頃からだよ。まわりと自分の折り合い、いや、折り合いをつける前に「なんでオレは、ここにいるんだろう?」とかね。今もものすごく「なんでここにいるんだろう」って違和感があるんだけど(笑)。そういうことを僕はおもしろがっているけれど、それに負けちゃう人がけっこう多いんだよね。

酒井:たいていは違和感を持っても、のみ込んでしまうと言いますか、無理矢理のみ込んでしまう人が多くて、「違和感があるよ」ってなかなか手を挙げづらい状況がむしろ多いと思うんです。五味さんは違和感があるとき、どういうふうに対応していらしたのですか?

五味:今、酒井さんが言っている違和感とオレが思っている違和感がちょっと違うんじゃないかな。つまり、きみが言ったのは、社会に対して文句があるっていうレベルじゃない? その場合は、個人の立場とか個人の能力によって、まあ調整しながらやっているんでしょう、多分。オレはもう少し豊かな感じで違和感というのを捉えたいと思ってるし、捉えてるつもりではいる。違和感イコールbad(バッド)ではない、悪いことじゃないんだよねって思う。むしろ人生の楽しみかもしれないよね、違和感を感じるってことは。だから、旅行に行くんだと思うんだよ。

前田:旅行ですか?

五味:だって、違和感の何もないところに行って何が楽しいの? 極端に言ったら、トラブるために、困るために旅行に行くんじゃないのかな? オレはそういう旅行をしたいんだよね。エージェント(代理店)が揃えてくれる旅行は、トラブルがないようにと手配してくれるから「ノー・サンキュー」なんだよね。

酒井:スムーズに行き過ぎると。

五味:そう。たとえば、言葉の問題が…とか言うでしょ。いや、そこがおもしろいんじゃないかと思うわけだよ。まだ若い頃、仲のいいカメラマンとニューヨークに行って、カフェに座っていたら、ウエイターのでかい男が出てきて、ベラベラベラってなんか早口で言うわけよ。そしたらそのカメラマンが、男の顔を見ながら「あのさ、おまえの言ってること、オレ全然わかんないよ」って日本語で言ったの。

前田:素直ですね。

五味:前からおもしろいやつだとは思ってたけど、花のニューヨークのど真ん中で、当然のようにウエイターに日本語で話しかけたんだよ。そしたら何が起こるかというと、そのウエイターはカメラマンの言ってることが全然わからないから、慌てたわけ。お互いに何を言ってるのかよくわからない。そこで彼らは五分五分になったわけだよ。次は何が起こるかというと、こっちは客で、向こうは注文を取りに来た男、サービスする側でしょ。オレが間に入って「ゆっくり喋れ」って英語で言ったら、やっとわかったみたいで、ゆっくり丁寧に言い直したよ。「ご注文は何ですか?」。「コーヒー2つ」でおしまい(笑)。つまり、その状態について、自分はどれくらい表現ができて、感じられて、相手はどう受け止めるか、というのを楽しんでいる。ニューヨークにはいろいろな人がいるわけだから、向こうは「どんなのが来るのかなあ?」と待っているわけで。たとえば、言葉がわからなくて慌てていなくなっちゃったっていうのもあり得るよね。あるいは「ヘンなやつがいるんだけど」って店長を連れて来るとか。いろいろな状況があるじゃない。それがおもしろいんだよ。それがイヤならば人生やめちまえ! って感じ(笑)
あえて説明すると、違和感ってライブなことでしょ。そこで自分がどう反応するか、どんな現象が起きるかということだから、ときどきはそんなハッピーな話だけじゃなくて、アンハッピーなこともいっぱい起こる。でもそれは少なくともこちらの興味の持ち方によるでしょ。それがプラスなのかマイナスなのかは、いちいち判断していくことの連続でありたいなって、今思うよね。キャパシティーがないと、「言葉が通じない」という自分の不快感なり、「外国って言葉が不自由ですから」って言う不自由さにつながっていく。でも、逆に、その不自由なことは当たり前じゃないかと思う。

酒井:違和感が「バッド」ということではなく、この社会に対して不満があることとか、そうじゃなくて、いつもは考えないことの入り口に立つ、みたいな感じですか。

五味:その違和感を材料に、考えてみればいいんじゃないですか。「エンジョイ違和感!」みたいな感じで。

言葉がわかるなら、考え方も共通しているという誤解

五味:オレは今も、外国にいるみたいな気がして生きてるの。日本にいるからくつろいでいるってところが全然ないのよ。さっき、うちの前のマンションの管理人と喋ったけど「この人、何者だろう?」ってむこうは見てたし、こっちも。要するに日本語が通じるというだけの話で、別に気持ちは通じてないなあって。ひるがえって、外国に行くと、言葉は通じてないけど通じてるな、みたいなやつにいっぱい会うわけだよ。オレは割と外国にいるほうがくつろいでるよ。「どうせ言葉、通じないんだし」みたいなのがあるから。

前田:そうなんですか。

五味:今、ここにスタッフ含めて7人いるけど、7人の空間でみんな一応日本語がわかってるって前提でオレも喋ってる。だけど、たとえばメキシコに行ってワークショップやるときに、スペイン語を話すやつもいるし、英語がわかる人もいる、日本語がちょっとわかる人もいるっていう場で、はっきり言うと多様性があるわけだよ。「ブロークンしかできないけど、英語でいい?」って言うと「ああ、どうぞ」っていう場合もあるし、「僕、英語はダメです」、じゃあどうしようって通訳を呼んでくる場合もある。そういう段取りや確認を、日本だとしないわけだよね。そうすると、逆に言えば、「ひとつ越えた共通なものがある」なんて誤解が生じる気がする。言葉の壁を取っ払ったわけじゃないのに、みんなが日本語を喋るから、みんなわかってるはずだって。それを拡大解釈すると、考え方もだいたい共通ですよね、っていうだらしない前提があるんだろうと思う。これがトラブルのもとよね。

前田:はしょってしまって。

五味:だから意外と、沖縄の人とか、東北の人とか、その地域特有の言葉遣いで話されると、極端に言えば「何言ってんの?」ってわからないし、むこうも「わからないお人じゃ」みたいになって、より丁寧に喋ることになる。でも都心にいると、大雑把に「日本語はみんなわかってるんだ」という意識で、日本の常識なり、あるいは歴史的な認識の常識なんていうのを前提にしちゃう。これは大間違いだなって思うことがあるのね。それゆえにひとつの民族の中で同じ言葉を喋ってると、結果的には排他的になっちゃうんだろうなあって思うところがありますよ。

酒井:なるほど。

五味:僕はよく「ガキ」って言葉を使うんだけど、これは、はっきり言って愛称、敬称ですよね。自分のガキの時代を含んで、親しみを込めて言っているわけだけど、「それは言葉としてはよくないです」みたいなチェックが出版社や放送局ではあるよね。そんな細かいことより、もっと大事な、それこそ違和感があるはずだ。それを、日本人だからそこは飛ばしちゃうっていう感じがあると思いますよ。

前田:なまじ言葉が通じるだけに。

五味:言葉が通じるがゆえに、言葉に対してあんまり緊張感がないんじゃないか。繰り返しになるけど、南米なんかに行くと、「この人、スペイン語話すのかな? 英語かな? あるいはポルトガル語?」とか、通じているのかどうか初めからわからないから、いつもより丁寧に喋るよね。あきらめる部分もあるんだろうけど。そこで交わす不自由な会話のほうが、かえって気持ちが通じてイケイケになるってことはどういうことなのかなあ、って思うね。

酒井:言葉は通じないのに、気持ちは通じ合う。

五味:ついこのあいだ日本でオリンピックやってたでしょ。そうすると、「みんなオリンピック、好きですよね」という前提で喋ってるみたいな感じがあるよね。「オレ、嫌いなんだよね」って言うと意固地な人みたいになる。日本人だから日本でやるオリンピックには協力すべきだっていうような、変な理論があるじゃないですか。そういうのが雑だよね、みんな。終わると「実はあんまり好きじゃなかったんだよね」みたいなことを言いだすような。言語が共通ゆえに、非常に雑な会話をし続けてるんじゃないだろうか。で、何かトラブったときに根っこがわからなくなる。
よく、「普通そうじゃない?」って言い方があるよね。

前田:ありますね。

五味:普通なんてねえよ(笑)。「それが普通だよね」っていう言い方、外国語が混ざった場合に「これがコモンセンス(常識)だよね」とは言えないと思うんだよ。確信がないというか、もうちょっと緊張してる。だけど日本の中にいると、その緊張感がすごく少ない。それはたとえば家族という単位になったときに、「家族だからわかってるはずだろう」ってなる。「全然わかんない」のが根本だよな。でも、「なんでわからないんだ?」「もうわかってるだろう?」って、家の中でも学校でも同じカタチなんだ。「わからないから悩んでるんです」という、そのマイナーなものはオミット(排除)していってしまう。で、全体の意見がなんとなく大手を振っている。そして、違和感があってもそれにつき合うっていう習慣がついてくる。

酒井:確かに学校教育とか、違和感を持って発言するより、みんなと揃えようみたいな感じで排除されてしまいます。

五味:まさにそういうことなの。「なんでこの意見を今言うの?」って、みんながシラーっとしてるみたいなのがあるよね。めんどくさいな、みたいな。そこで、「えっ?」と思った子が発言するのに、“勇気”みたいなものが必要になってきちゃう。聖徳太子の「和を以て貴しとなす」っていうのが、実は何が貴いんだろうかって考えたことがないんだよね。

前田:ないですね。

五味:「和を以て貴しとなす」って、何の得があるんだろうと冷静に考えると、国家運営には得なんでしょうね。文句言うやつを内部調整していってくれる。だから、全校まとまって運動会だよとか、町民早起き体操だよとかいうときに、「オレ、行かないよ」っていう少数意見は自然に抑え込んでいくような。まさにそれがオリンピックだったし、ワクチン接種だったんだろうと思う。必ず「どうしてみんなが協力してるのに、あなたはやらないの?」っていう、なんとか警察みたいなのが出てくる。そこに違和感を唱えても、抑え込んでしまうってことだよね。で、気がついたらとんでもないことになっていて、にっちもさっちもいかなくなっちゃう、極端までいくと戦争になってた、なんてことの繰り返しなんでしょうね。

酒井:五味さんは、小さい頃から違和感があるときは発言していらした?

五味:いや、僕は逃げますね。逃げるというよりは、ずらすというか。そんな意識で生きてるわけじゃないけど。もちろん、違和感を持ったら聞いてみたんでしょうね、多分。でもほら、植木等が歌うところの「およびでない? こりゃまた失礼しました♪」みたいな状態がいっぱいあったよね。「ここでこの質問はおよびじゃなかったんだな」って。ちょっとしらけた感じが漂っても、まあ、しょうがないなあ、っていう感じ。それがイヤだから、意見も言わなくなり、異論を唱えなくなるっていう連続なのかなあと思いますけどね。異論を唱えるとおもしろいけど、あからさまにイヤな顔をするやつはいっぱいいる(笑)。

前田:叱られちゃったりして。

五味:「ここでかよ」みたいな。

たまったものを表現する力を持つといい

前田:子どもって、それこそいろいろ思うことはあるんだろうけど、意外にあんまり言わないですよね。

五味:違う違う。言わないんじゃなくて、言おうとしてるんだけどボキャブラリー(語彙)がないんだよ。僕なりに総括すると、ガキっていうのはまず寸法が足りないのね。これから大きくなるんだから。それと経験が少ない。生まれてから時間がまだ経っていないから。あと、金がないんだよ。寸法が短くて、生きてる時間がまだ短くて、金のないやつらを、「子ども」と呼ぶのだと思うし、そういう意味において、彼らは守ってやったほうがいい。単純に言うと、学習してる時間が少ないから、ボキャブラリーが少ないわけよ。だから、ケンカしようにも「ギャー」って泣くしか手がない。それがボキャブラリーが増えてくると、政治家ぐらいになれるわけじゃないですか。語彙が少ないから、本当はいっぱい言いたいことがあるんだろうけど伝えられない。多分、少し感受性の強い子どもたちは、自分の中に閉じていったほうが楽だなってことに気づくんだと思うよ。オレもそうだったけど。

前田:五味さんも?

五味:表現する仕事をオレが選んだのは、今ならわかるんだけど、心の中にためてきたものがいっぱいあるんでしょうね、多分。誰に向かってということじゃないけど、今言うべきこととかものが、そのときにどうやって言っていいかわからない、どう表現していいかわからない、そういうものが割とたくさんあったやつが、豊かな表現者になると思うよ。僕のまわりを見ていても、この本で初めて言えたこととか、この文章を書けて初めて自分で納得できた、っていうふうにやってるよ。それが多分、作家の仕事とか、いろいろな表現の仕事のおもしろさなんだよね。それがなかったら、ただのお話作りだけで終わっちゃうだろうけど、自分の中で「あ、こういうことが今、やっと言えたな」っていうような喜びみたいなものが多分、あるはずだよ。

酒井:「それって常識だよね」とか「それが普通だよね」と割り切らずに。

五味:あるいは、そのときは「そうだよね」ってお茶を濁しておく、その場がしらけるから。別に議論する話じゃないからって言いながら、でも、何かひっかかるんだよね、と思いながら腹に収めるわけ。収まらないんだけど。そういったものがいっぱいある人と、それをひっかけないで、まあ、失礼な言い方をしちゃえば雑に生きてる人は、あんまりたまってないから、健康にはいいんでしょうね(笑)。だから逆に言えば、表現するということは、オレなんかのタイプのことを言うと、健康のためにやってるところがあるよね。さわやかであることのために。言いたいことっていう意味じゃなくて、なんだかためてきたことがあるんだな。それをわざわざ気取って、芸術とかアートとか言わないで、オレは単純に「表現する」。表現するっていう能力を、みんなもっと持ったらいいのにねと思う。余計なお世話だけど。
今、YouTubeなり何なりのプラットフォームがあって、みんな言いたかったんだよね、ってわかる。表現したかったんだよ。あるいは表現したいんだよ。でも、その場がないんだよ。それはなぜかって言うと、止められたからなんだ。踊りたいんだよね。でも「そこで踊っちゃダメですよ」って、おまわりさんに怒られるんだよ。「そこで歌っちゃダメですよ」「そこで絵描いちゃダメですよ」「そこで遊んじゃダメですよ」ってばっかりじゃないですか。そしたらさ、オリンピックで階段の手すりを滑り降りて、金メダルを取ったやつがいるわけじゃない。

一同:スケートボードのことですか?(笑)

五味:あれはビックリしたよなあ。

エッセイ本の執筆で、今の自分を客観視できた

前田:100歳まで生きたいのは、楽しく生きたいからって、前に何かでおっしゃっていたような気がするんですけど。

五味:今、76歳やってるんだけど、オレがやってるわけじゃないわけだよ。なってるだけ。何歳になろうと思って頑張ってきたわけじゃないよね。それが不思議だなって思うんだけど。「努力してなりました」って言いたいなあ。

前田:「わたくしも努力して76歳になりました」って(笑)。

五味:あえて言えば、まわりでくたばっちゃたやつが出てきたり、暮れに住所録から削除みたいなのが、去年は3人、今年は何人なんて出てくるわけじゃない。そういうのは少し感じが変わったな、というのと、多分、肉体的には以前よりも前後の動きがちょっと弱くなったかな、とかさ。

前田:それ、テニスの話では?

五味:そう。今、みんなドロップショット(ネット際にポトリと落とすショット)ばかり打つみたいな(笑)。作戦だよな。

前田:すごい作戦ですね。

五味:2020年の暮れぐらいから、エッセイを書いていて。ブロンズ新社から来年(2022年)の2月に本が出ます。どうしてエッセイを書いてみようと思ったかというと「今、何考えてるんだろう?」って自分で確認する作業なんだよね。結果、よかったなと思ってるんだけど。同じことを同じテーマで書き始めても、20年前、30年前、40年前に書いたのとはやっぱり違ってるんだよね。違えようと思っているわけじゃないんだけど、何か変化してるなあというのはわかった。

前田:変わりましたか。

五味:かつては、講演会の要請があって、ちょっと出かけていって喋るということをよくやっていました。喋る話題として、この国なり、この世界のことを考えると、初等教育の貧しさってもうどうしようもないなって、よく話してた。子どものあの大事な時期に、今のカリキュラムで教育してたら、救いはないよねってつくづく思うのね。社会的な問題、全部つめて何でそういうことになるんだろうって考えると、やっぱりあの初等教育の異常さに戻る。初等教育のカリキュラムが持っている異常さに気がつかない限り、社会って絶対にダメだなあと。ほんとうに子どもたちが穏やかに生きていく、自己を充実して個人が生きていくには、あのカリキュラムでは絶対ダメだと思ってる。で、今でも気になるから、書こうかなと思うけど、書きながら「こういうの、どうでもいいよね」って思っちゃう自分がいることに気がつき始めた。今回、40本ぐらい短い文章を含めて書いたんだけど、問題提起、問題意識みたいなのがほとんどなくなってきたなあ。そういうのが自分で変化するのがおもしろいなあと思って。

前田:それは自分を客観視しているということですね。

五味:そう。客観視するためにしか表現ってないような気がする。ひるがえって、人様の絵を客観的に観ると「この人、これが描けてほんとによかったな」と思ったりね。「この人、まだ描き足りてないな」とか、割と敏感に感じるよ。それが観たくて、人の絵を観るんだけど。

「コロナ前に戻りたいか?」という問い

前田:今、コロナというファクターがあるじゃないですか。で、去年、あるインタビューで「コロナの前に早く戻りたいですか?」って問いに、五味さんが「そんなに戻りたいか?」「そんなに前がよかった?」っておっしゃったって……。

五味:そんな強い語調で言ったんじゃないんだけどね(笑)。よく答えられなかったんだよ、「コロナの時代に、どうやって生きていけばいいですか?」みたいな質問に。オレ、コロナもよくわかんなかったし、「戻りたい」っていう感じがわからないから。あの頃、少しずつあっちこっちがシャットダウンして、自宅にいなければならなくなって、みんな苦労してますみたいに言うから、「いや、自宅にいるのいいじゃない」って。オレはやっぱり、変化イコールいい感じになるっていう感じがどうもあるんだよね。たとえば、何かが壊れたら、新しいのに換えられる!みたいな。変化することをうまく使えばいいのに。今、家にいなくちゃいけないなら、「家にいるのが楽しい」ってなるように、なるべく努力すればいいんじゃない? って話をしたのと、「元に戻りたいのかなあ?」って話、もう少し穏やかに言ったんだよ(笑)。

前田:そうですか、すみません(笑)。

五味:それがやけに響いちゃったらしくて、例によって拡散したらしくて。それから、いろんなインタビューがいっぱいあって、いつも同じようなことを言って。「元に戻って、あの満員電車に乗るのがほんとに楽しいの?」って聞いたら、「別に楽しくはないんですけど」とか。あのときずいぶん逆インタビューしてたな。「で、きみはどうなの?」「私は家にいてリモートで働けると、子どもの送り迎えが楽で、とてもいいです」とか言うから「よかったね」って。「だけど、これじゃあ、記事になりませんね」みたいな。

酒井:オーバーに書かれた。

五味:「問題意識を持たなきゃいけない」と思ってるんだよ、みんな。問題意識を持って、それを解決して前進しようよって。だから、学校教育が悪いのよ。

前田:やっぱりそこですか。

五味:学校教育って、必ず夏休みになると、これからくつろごうというのに、行動計画表書かされて、8時に起きて朝の体操に行って、ヤクルト飲んで、午前中ちょっと勉強して、午後は昼寝をしてって、よく円グラフ書くじゃない。

前田:やってました。

五味:2年生は1年生よりえらくなって、5年生は4年生よりえらくなるっていうのが、なんだか前提になってるよね。去年よりは今年がいい。いつも100を基準にして、99だと真っ青になって101にする努力をする。オリンピック憲章に「ever onward(エヴァー・オンワード)」っていうのがあるわけよ。洋服屋じゃないよ、「限りなき前進」っていう意味だよ。「より速く、より高く、より強く」とか、わけのわからない標語で、人間が限りなく進歩していくってことが前提になってる。これで全部、苦しくなっちゃったわけ。

酒井:「エヴァー・オンワード」ですか。

五味:だから、60歳の前田洋子ちゃんは、50歳の洋子ちゃんよりもえらくないといけない。

前田:困りましたよね。ほんとはいつもそれ、思ってるんです。自分は年齢としては大人なのに、昔、思ってた立派な大人じゃないな、と。

五味:子どもより偉くなってなきゃいけない前提なのに、偉くないもんだから、それをどうやってごまかすか。どうやってずらすかっていうのに苦労してるわけじゃない。

前田:確かにそうですね。苦労してます。

五味:たまたま「学校の教師になっちゃった」みたいな人が先生をやってるわけ。それで、わずか5つぐらいしか年齢が違わないガキに向かって、人生を説いたりするわけよ。だから、先生は「人生がわかってる」ことになってなきゃいけないわけ。で、ガキはそれを無意識にわかってるから「なんでコイツ、こんなえらそうに言うんだ」になるわけよ。そのときになんで、「人生って、いろんなわかんないことがあるんだよね」って、「その場その場で頑張らなきゃいけないんだよね」っていうことを共有できないのか。

前田:そうですね。

五味:たとえば、高校生が不純異性交遊してはいけないとかあるじゃない。

前田:いきなりそこですか?

五味:すみません(笑)。それで、先生っていうのはたいした異性交遊してないわけだよ。

前田:ひどい!

五味:ひどいって、若いんだもの。性行為の何たるかなんてわかってないのに、何言うかと思うと「性行為は大人になってから」とか言うわけよ。

一同:

酒井:チャット欄、大盛り上がり。

五味:ああそう。

酒井:ライブでよかったです。

五味:性行為みたいなのを言葉にするのもはばかられますが。みんなさあ、なんで自分が生まれてきたのか、わかんないうちに生まれてきたわけでしょ? だってさ、気がついたら、ここにいたわけでしょ。だから、正しいも間違ってるもないでしょ? それなのになんで、まともに生まれてきたみたいな気になって、「正しい人生」とか「意味のある人生」とか言うの? それ後付けでしょ? 昔、なんだか知らないけど「僕って何だ?」「なんでここにいるんだ?」って思ったんだよ、多分。そういう昔に思考したことを割と丁寧に考えて楽しんでるやつって意外に少ないなあと思う。その丁寧に少し考えるタイプのオレが少し責任を持って言うと、何か気がついて、「この生命体、何だろうなあ」と思ったことをたどりながら、ずっとやってるような気がする。途中で「わかった」ってことは一回もないわけだよ。だから「死ぬ」ってことに関しても、オレ、不安でもなんでもないのは、「わからないまんま、わからないんだろうな」って予想がつくの。だから、死のことを恐れる人とか、お墓とか建てて頑張っちゃってる人は「わかった!」と思ったんだろうね。

前田:死ぬことを?

五味:いや、生きてるってことが。だから、それがわかんなくなっちゃうのが不安なんだろうね。しっかりわかったような誤解をしたんじゃないの? 生命ってものを。
うちの母ちゃん、100歳なんだけど、まだ生きてんのよ。で、彼女はさすがオレの母ちゃんで、「どうすんのかしらねえ」とか言ってるよ、未だに。彼女は今「どうなるのかしら?」「不思議だなあ」って、穏やかに生きてる。オレもその母の子どもだから、「不思議だよね」ってずっと思ってる。人間、たかだか200万年ぐらいしかやってないわけだけど、どこかで、何か段階的にわかっていくことのひとつの物理みたいな、それにはまり過ぎちゃったんじゃないかなあって気がするね。

「エヴァー・オンワード」からの脱出でウェルビーイング?

五味:なにしろ昨日よりは今日、今日よりは明日がよくなくちゃいけないんだけど、その割に……って感じ。もう会社の経営なんて、それが大前提じゃない。それに含まれてる人がすごく多いから。『オレンジページ』の売上げの話を、去年はこれだから、今年はこれだ。それが誰のためにどういう目的でということと合致していなくて、その価値観だけがひとり歩きしていて。で、いつもその価値観の確認のために、競争原理っていうのが働いちゃうわけだよね。そうすると、去年より今年のほうが賢くなきゃいけない。それ無理ですよ。去年より落ちたなあっていうのはあるよね。去年はもうちょっとよかったのに、みたいなのが山積みじゃない?

前田:ありますね。

五味:あるいは一昨年よりちょっといいかな、とか。個人の中での比較材料はいっぱいあるけれど、上がってなきゃいけないって、何だろう? 
そう、阪神タイガースっていう魅力的なプロ野球チームがあるわけよ。

前田:

五味:あれはねえ、今の原理から脱却した唯一のチームだよ。

前田:脱却?

五味:ファンもそうね。だからタイガースファンってバカなんだよ、ほとんど。競争原理に入ってないんだよ。いつも3月頃にみんなの連絡網があって。

前田:虎ファンの連絡網?

五味:そう。で、「今年はどう?」「今年はいけますよ」って必ず言うんだよ。「今年はいいですよ」「佐藤みたいな新人が入ったし、韓国リーグの三冠王が来ます。今年はいける」とか言って。それでだいたい8月頃になると……(笑)。今年はちょっと長くてね。「いけるんじゃないですか!」みたいな。

前田:ほんと、優勝するんじゃないかと。

五味:その可能性がなくなったときに、全然連絡も来なくなって(笑)。「また来年、頑張りましょう」みたいな。全然、否定もしないし「よくやったなあ」で、他に何もないの。また来年、春になると「今年はいけますよ!」ってまた盛り上がるんだよね。で、こういう人種がタイガースファンなの。「エヴァー・オンワード」の人々はタイガースファンにならないの。巨人ファンになって苦しんでるよ、みんな。「今年は何が悪かったんだ」って分析してるよ。会社もそういうのがよくあるよね。どこそこの支店がよくないんじゃないかとか、あれやるかこれやるか、みたいな。だから「エヴァー・オンワードなんてないよね、人生は」って思った人がオレのまわりにいっぱいいて、「今年は楽しいですね」「去年はもっと盛り上がりましたね」とかさ。それが今、進歩・発展を前提にしていて、自分もそうだと思っているから、それで苦しくなるんじゃないのかなあ。それを取っ払えば、全部ウェルビーイングだよ。あれ、なんでオレが「ウェルビーイング」なんて言葉を使ってるのかわからない!(笑)

酒井:まさかの「阪神タイガースがウェルビーイング」(笑)。

五味:阪神タイガースはそれゆえに、あそこの収益はすごいもん。ちゃんと商売になってますよ。オレもなってるよ(笑)。

酒井:ありがとうございます。では、ここから皆さんのご質問にお答えします。

質問:就職活動に挑んだ大学生です。家が裕福ではなく、生きるためにも早くたくさんのお金を稼がなきゃと思うのですが、就職活動はお話に出たような共通認識、会社の求めることのために自分の違和感を黙殺するような場所に感じてしまい、それに耐えられず、ほんとうの自分は求められていない感じがして、就職活動を中断してしまいました。五味さんはお金を稼ぐということをどのように捉えていますか?

五味:多くの今の人たちは、社会にどうやって受け入れられようか、どうやると社会が使ってくれるかって考えてる。僕や僕のまわりにいる人間は基本的に、“社会をどうやって使うとおもしろいか”っていう発想なんだよね。で、実はこの日本っていう国は使える国でね。ごちゃごちゃしてるしね。社会っていうのを使って、自分がどのぐらい遊べるか、つまり仕事ができるかっていうことでいいの。割とオレも、高校を出たあたりぐらいから、ポツポツいろんなバイトをやってたけど、面白いんだよ。花屋なんかやって、車に花を積んで売ってたりすると「ここで売ると商店街のやつらがうるさい」とか「コワモテのお兄さんたちが来る」とか。それでそういう人たちに文句を言われない所で売ってると、客が来ない、っていうのに気づくじゃないですか。社会ってものがあって、そこで自分がいるんだっていう位置関係に。
就職活動でも、会社っていうものもいっしょくたでは全然ないから。いろんなタイプの企業があることも見えてくるはず。一応は法人のカタチをとっていようが、有限会社のカタチをとろうが、活動している人っていろいろなタイプの人がいるわけだから。都会にいると便利そうだけど、意外と一色に見えちゃうっていうのがあるよね。みんなビルの形が同じだから。だけど、ちょっと地方に行くと、もっと人間が見えてくる。いろんなことやって、いろんな商売してる人が実はいるんだよね。だから、就職って、就職試験を受けて人事課から連絡待つ、みたいなだけじゃ全然ないし。若いうちっていうのはフットワークがいいし体力があるから、ほんとにいろんなやつに会ったほうがいいと思うよ、就職活動も含んで。それで違うことで盛り上がるかもしれないから。それだけはね、今、足りなすぎるよね。ほんとに足りなすぎる。何社受けましたって、同じタイプの会社ばかり受けてるもん。

前田:確かに。

五味:魅力的なたたずまいがあったら、ちょっと行ってみようかなっていうのは、やっぱり若い頃の特権だし。そんな初めからじいさんがやってるような企業に首を突っ込むことはないよ。若いのが自分でやってる会社もあるから。「この会社をオレが使えるか」っていうのがいちばんいい態度だよね。

前田:なるほど。会社に使われるんじゃなくて。

五味:うん。この会社がオレを使ってくれるかじゃなくて、オレがこの会社を使えるか、という呼吸がないと。学校化社会っていうのはいつも試験で試されて、いつも採点されて、ランクが決まるっていう。人生ってそんなもんじゃない、ってことに、まず気がつかないとダメだと思う。

質問:高校生の息子が引きこもりになりまして、先生方から「そっとしておいたほうがいい」と言われました。違和感があります。どう思われますか?

五味:(間髪入れず)高校に行ってるのが間違いだもの。いや、ほんとにほんとに。オレ、ほんとに思う。今、70代なかばまで来て、何十年前にこういう学校というシステム、しょうがないから僕もつき合ってたけど、オレが年取った頃には、世の中って変わってるんだろうなって思ってたの、いろんな意味で。ひとつには学校っていう制度が、こんなの戦後の臨時のカタチだなと思ったから。ところがびっくりするぐらい変わってないよね。

前田:ずっとそうです。

五味:この学歴社会というのと、初等教育が問題だっていうのは、別の機会にやるとして、なんでダメかっていう説明はしなくてもわかると思うんだけど、初めから試されて、初めから並ばされて、はっきり言って人権なんか何もなくて、人権と言う割には何もなくて、それでなおかつ、未だに学歴社会っていうカタチで、その学歴社会のための学校だよ。いい就職のためのいい学校だよ。で、学びのための学校ってないんだよ。驚くべきことだよ。だって、学ぶのってほんとに楽しいのに、それを楽しくやってる学校がないのが、また不思議だよね。

一同:(全員うなづく)

五味:「なんで学校に行ってるの?」って聞くと「いや、上の大学に行くから」。で「なんで大学行くの?」って言うと「いい就職ができるために」って。この図式を誰かが絶ちなよって思うわけ。学校が変わっていく、文科省が変わっていくことを期待したら絶対ダメだよ。だって、この学校のカタチっていうのは、学校関係の人が最ももうかるようにできたんだもん。大成功だもん。だからこれはもう商売として、絶対維持していくのよ。
あと問題なのは、子どもはユーザーだ、ってことなんだよ。ものすごく簡単に言うと、消費者なんだよ。で、消費者が賢くなかったら、産業資本主義の世界は変わらないんだよ。学校というシステムを買うんだよ。で、「おまえ、買うか?」って言うと「買わないなあ」というのが本当の答えだと思うよ。もっと物理的に言うならば、オレも子どもが何人かいるからわかるけど、ほんとに金がかかるんだよね。こんなのあり得ないよね。でも、この社会というのは、それがあり得ると同時に、それやってる商売の人、受験予備校とかそういうところが、はっきり言うと、ご商売がうまくいってるわけ。だから、少し子どもが少なくなって危ないとなったら、みんな介護になるもの、学校をやめて。簡単でしょ、構造は。

前田:確かにそうですね。

五味:ところがまだ、「絶対に学校を出ないとまともな人間になれないよ」っていう神話の中に生きている。このことを崩すのはシステムじゃなくて、ユーザーのほうなんだよ。絶対に。
あのね、五味先生のことを少し信用するんだったら、中学校までとりあえず出なさい。義務教育はタダに近いから。ちょっと気取って私立に行くっていうのは、これはまあいいやね、どんな時代でもそういうちょっとスペシャルな生き方をしたい一団はいるから。とにかく、中学までは出ないと。

酒井:中学ですか?

五味:初等教育の制度だけは終える。これは卒業じゃなくて修了なの。卒業証書じゃなくて修了証書をくれるの。義務教育が終わりましたよっていう証明書で、日本国の国民になった前提として、パスポートが出るの。運転免許証もこれが前提なの。不良のガキどもに「運転免許証とパスポート、おまえら欲しいか」って聞いたら「欲しい!」「だって世界に羽ばたきたい」みたいなことを言うのね。この義務教育の9年間は、犯罪を犯さなければ、別に能力がなくても修了できるの。その時間を充実させることが何かというと、読み書きそろばんなの、実は。

前田:読み書きそろばん! そうか!

五味:読むのと書くのと、で、ちょっと計算して。もうひとつ、インターナショナルにいくと、ツールとして英語を使ってるから、読み書きそろばん、英語ぐらいやっておけば。で、もうちょっと贅沢いうと、ITを入れとおくとちょっといいかな。軽くコンピューターぐらいは使えるといいね。これ、9年間あればできるだろう。普通の当用漢字を覚えて、加減剰除(+−×÷)を覚えて、パーセンテージの出し方を教わって。国語と算数だけやっておけば、それも算数の理論なんていらないから、ここだけ充実させておけば、パスポートは出るから。これをサボっちゃうと、ちょっとめんどくさいことになるんだよ、実は。学校にたかだか朝行って、昼頃帰ってきちゃえばいいんだから。それ以上脅かすのは、教育界の秩序が乱れるってことで脅かすだけで、これ以外脅かす要素は全くないの。
運転免許だって、あれは本当は試験を受けて取るっていうんじゃなくて、“運転できる能力があります”っていう証明なんだよね。必要ならばそういうものを取ったほうが絶対いいよ。学歴よりは、そっちをいっぱい取ったほうがいいんじゃない? で、たとえば自動車の整備士になりたい、整備の学校に行きたいというときに、一応、中学を出てるってことが前提なんだよね。だから、中学と高校は実はつながっていないんだよ。

前田:そうですか。

五味:中高一貫校とか言ってるのは、営業で言ってるわけよ。普通の総合病院の中に美容整形外科があります、なんて病院があるんだけど、それは商売の話で。

酒井:お時間もオーバーしてしまいましたので、残念ですがここで終了とさせていただきます。みなさん、たくさんのご意見、ご質問をいただきましてありがとうございました。五味さん、本日はどうもありがとうございました。

前田:ほんとにありがとうございました。

五味:腹減ったな。腹に違和感が。いいな、これ(笑)。


五味太郎(ごみ・たろう)さん
1945年、東京都生まれ。工業デザイナー、グラフィックデザイナーなどを経て、1970年代から絵本作家に。『きんぎょが にげた』や『らくがき絵本』シリーズなど、著作は450冊以上で、海外でも翻訳・出版され人気を博す。産経児童出版文化賞、ボローニャ国際絵本原画展賞、路傍の石文学賞など受賞歴多数。2022年2月に最新エッセイをブロンズ新社より刊行予定。
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