「仏教において“食べること”の意味とは?」(ゲスト:青江覚峰さん/緑泉寺住職)

これまでになかった視点や気づきを学ぶ『ウェルビーイング100大学 公開インタビュー』。第20回のゲストは東京・浅草にある緑泉寺の住職・青江覚峰さんです。日本人は無宗教といわれていますが、長い時間の中で培われてきた食習慣には、仏教の考え方が影響していると考えられます。「料理僧」としても活躍している青江さんに、食のみならず、生き方との向き合い方のヒントをたくさんいただいた、貴重なインタビューになりました。

聞き手/ウェルビーイング勉強家:酒井博基、ウェルビーイング100 byオレンジページ編集長:前田洋子
撮影/原 幹和
文/中川和子


お経には「完璧な人間なんていやしない」ということが書いてある

酒井:青江さんは「料理僧」として数々の著書もあり、テレビや雑誌でも引っ張りだこなのですが、食について関心を持たれるようになったきっかけというのは?

青江さん(以下、敬称略):食に対する関心は、うちの母のおかげです。母は料理が好きで、料理上手でもあったので、子どものときから僕は料理を手伝っていました。手伝っていたというか、手伝わされていたというか。たとえば、栗の皮をむくとか。最近はそういうことは少なくなってきているのではないでしょうか。むけないし、手は痛いし(笑)。

酒井:青江さんのキャリアは非常にユニークで、アメリカに行ってMBAを取って、それからご実家のお寺を継がれました。そして、「料理僧」と名乗られている.

青江:実家が何かの事業をしている人って「実家を継ぎたくない病」になりやすいんです。(笑)それで、そこから逃げるわけです。僕は逃げるなら徹底的に逃げないとダメだと思って、アメリカに行きました。

前田:そんなに遠くへ(笑)。

青江:お寺を継がないとなれば、一生アメリカにいるつもりだったんです。そうなると生活も考えないといけないので、MBAを取って働けるようにと思って。ところが、アメリカで9・11*があって「このまま仕事をしていていいのだろうか」と思い、日本に戻ってきました。日本に戻ってきてから、食わず嫌いをしていた仏教も、食わず嫌いのままではちょっとカッコ悪いなあと、築地本願寺の中にある学校に通ったんです。そこで仏教と出合ったら、ものすごくおもしろかったんですね。

*9.11……「9.11 米国同時多発テロ」 2001年9月11日の朝、イスラム過激派テロ組織アルカイダによって行われた全米4か所の攻撃。2,977人が死亡、25,000人が負傷。

酒井:どういうところが青江さんに響いたのですか?

青江:たとえば、お経って何が書いてあると思います?

酒井:音の印象のほうが強くて、内容はあまり想像がつかないです。

青江:僕もお坊さんになる前は、ありがたい話が書かれていると思っていたんです。ところが、お経の現代語訳みたいな全集を読んでいたら、お経の中には、とても人間くさいストーリーがたくさん出てくるんです。たとえば、大乗仏教の祖、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)という人がいます。その人のストーリーがすごい。何しろ天才的に頭がいいから、すべての学問分野に秀でていて、透明人間になれる薬を作る方法を習得すると、それを悪用して、友人たちと一緒にお城に忍び込んで、後宮の女性たちに手を出すんです。ところが、それに気づいた王様によって、一緒に忍び込んでいた友だちが斬られて死んでしまう。そのことにショックを受けてお釈迦様のところに行って教えを乞うたはいいものの、しばらくするとまたすぐ天狗になって失敗するということを繰り返すんです。メチャクチャ人間っぽいですよね。お経は完璧な聖人の話ではなく、人間のダメなところを描いている。日本の昔ばなしみたいなものですよ。それで「仏教ってすごくおもしろいなあ」と思ったんです。二千数百年前の人間がわれわれと同じようにバカなことをして失敗して、苦しんで、助けられて、また天狗になってバカなことをやって失敗して。

前田:人間は懲りないんですね。

青江:それに気づかされたとき、僕自身も悩んでいたこともたくさんあったのですが「意外と雑に生きても平気なんだな」ということをお経に教えてもらった。それですごく生きやすくなったんです。同時に「生きやすくなるのに、どうしてみんなこれを読まないのだろう?」と。それは今、“お経へのアクセス”がないからなんですよね。駅のフリーペーパーの棚にお経が置いてあるわけではないし。だから、こんなに面白いお経をみんなに読んでもらうために必要なのは、翻訳とアクセスだなと。“届けるべき人に届けるべき言葉に翻訳して届ける”、それがわれわれ僧侶の仕事なんだと思います。

今を生きる人たちのために必要なのが「ウェルビーイング」

酒井:青江さんはウェルビーイングという言葉に対して、どんなイメージを持っていらっしゃいますか?

青江:初めにウェルビーイングという言葉を聞いたのは、6〜7年ぐらい前に、こちらにも出ていらっしゃった石川善樹先生とお話ししたときです。そのときに「これはすごく大事だな」と感じました。仏教の場合は、「人の苦しみをどう解決するか?」という哲学がスタートなんです。苦しみをなくす、ということは、より良い生き方をすることですよね。それは洋の東西を問わず、どこでも、どんな宗教でも、みんな求めるところです。ただ、言葉も哲学も時代に合わせてアップデートしていかないと、現実社会とだんだん離れていってしまう。今の人たちに伝わる、生きやすくする言葉は何かと考えたときに、「ウェルビーイング」と聞いて「おお、これだ!」と思いました。

前田:なるほど。

青江:根底はみんな一緒なんですよ。仏教もキリスト教もそうですし、おそらくありとあらゆる宗教や哲学や思想は、人間がいかに生きやすく、苦しくなく、幸せに生きるかということを追求するものです。ただ、時代や風土によって、目的に至るルートが違ったり、言葉が違ったり。現代の生活様式とだんだん乖離してくる点も同じ。そこをどうやって埋めていくのかと言ったときに、言葉を変えていく。言葉でアップデートしていくというのはすごくわかりやすい手法だと思うので。

酒井:確かに言葉のアップデートはすごく大事だなと思います。時代によって言葉の意味も変わっていったりしますからね。

お坊さんは社会の“アソビ”部分

青江:お坊さんって、何をやっているかわからないと思われているんじゃないでしょうか?でも、だからこそできることがあると思うんですよ。今、世の中ってどんどん細分化されているじゃないですか。たとえば、デザイナーという言葉、僕らが若い頃は「アート系のカッコいい仕事をしている人」くらいの認識。でも今、デザイナーと言ったときに「webデザインですか?」「ソーシャルデザインですか?」とか、普通にそういう質問が出るぐらい細分化されている。細分化されればされるほど、自分の役割が明確になっていくので仕事はしやすくなると思います。ただ、その分、その枠から抜けられなかったり、隣接する仕事領域のところと軋轢が出てきたりすることもある。そこへ行くと、「何をやっているかわからない」と最後まではっきりしない職業って、お坊さんかなと思って。

酒井:確かに「お坊さんの役割って何なんだろう?」って考えると、すごく深い気がします。

青江:わかんないですよね。これ、仲間のお坊さんに聞くと、みんな「あ〜」って遠い目になるんですよ(笑)。僕も含めてみんなわかってないんですよ。

酒井:でも、世の中に必要だからたくさんお坊さんがいらっしゃると思いますし、いるということがすごく重要な気がするのですが。

青江:そこは「アソビ」みたいなもので、ブレーキでもハンドルでも意味のないところってあるじゃないですか。あれ、なぜあるんでしょうか。でも、トヨタにしろ日産にしろ、いまだにハンドルにもブレーキにも“アソビ”がある。「これがなければ危険だから」なんですよ。その「ないと危険だというもの」が、社会にもあると思うんです。子どもの頃って、夕方、白いランニングを着て、縁側で缶ビールを飲んでいるおじちゃんとかいましたよね。

酒井:いましたね。

青江:「何やってるんだろう、この人」みたいな。でも、そういう人たちが、子どもがキャッチボールとかしていると「おい、クルマ来たぞ。危ないぞ」とか言ってくれるから、道路で遊べた。今は、そういうめんどくさいことを言ってくれるおじちゃんがいないので、危ないからという理由でキャッチボール禁止になる。そういう社会の“アソビ”って、大事なんですよ。その“アソビ”になれる存在というのは、たぶんたくさんあると思うんですよ。僕らもそのひとつだと思っているので。

前田:お坊さんは「社会の“アソビ”」。地域の空き地みたいなものですか?

青江:そうそう、そうです。

前田:この空き地に何か建てようとか、駐車場にして役立つ土地にしようとすることがいいことばかりではないと。

BelieveとRespectの違いで考える日本人の宗教リテラシ―の高さ

青江:そうなんですよ。役割が決まると、その役割以外が除外されてしまうんですよね。ちょっと話がずれるかもしれないけど、京都の妙心寺の塔頭、退蔵院の副住職で松山大耕さんという方がいらっしゃって、その方がすごくおもしろいことをおっしゃっているんです。みなさんもぜひ「松山大耕 TEDxKYOTO」で検索してみてください。講演の中でこんなことを言っています。宗教に動詞をつけるとみんな「believe(ビリーブ・信じる)」と言う。信じるというのは択一で、ほかのものは選べないんだと。ところが、もともと八百万(やおよろず)の神とともに暮らしがあった日本の宗教観というのはそれと違い、「respect(リスペクト・尊敬する)」であると。そうすると“I respect Buddha and also Jesus Christ.”と言えるわけですよね。だから日本人はクリスマスにはキリスト教のお祝いをして、大晦日にお寺で除夜の鐘をついて、お正月は神社に初詣に行く。これは、宗教観がないということではなくて、それを全部リスペクトできるというのは逆に宗教観が高い、リテラシーが高いんだという話です。僕はそれが大事だと思っています。

酒井:ああ、そういう考え方もいいですね。

青江:つまり、日本人の宗教観には余裕がある。択一は、余裕がなければそれを選ぶしかないんですよ。でも、余裕があれば、あれもこれもとカフェテリアのように選べる。いろいろな中から気になった教えを自分で理解して、取捨選択をして、自分に合わせていくだけのリテラシーが現代は求められている。様々な宗教で自分がいいと思ったところを、全部合わせて、残ったものを自分の芯にしていくと、それこそ折れることのない自分なりの考えに持っていける。それがあると、自分が生きていくときに、逆風にあおられても折れないようになります。

酒井:排除していくのではなく、リスペクトしていく。すごいですね。

青江:初めての出来事に出会ったときにも、拒否するのではなく、いったんリスペクトしてみようと。それでも相容れないという時もあるかもしれないです。でも、いったん受け入れてリスペクトしてみるということは、すごく大事じゃないのかな。それこそウェルビーイング、よく生きるというところも、自分なりの芯がはっきりしていれば、生きるときにブレにくいということだと思うんですよね。

前田:なるほど。あれもこれもでブレるのではなくて、あれもこれもリスペクトして最終的に残ったもので、自分の中に芯ができるということですね。

「もっともっと」から脱却して料理を作る”余裕“を持つ生き方を

酒井:ウェルビーイングの研究で、世界的に、料理をする人は幸福度が高いという研究結果があるらしいんですけれど、それについてどう思われますか?

青江:たぶんそれは当たり前のことですよね。現代において料理をするということは“余裕”の表れなんですよ。余裕というのはすごく大事なもので、それはお金があればいいということではなく、自分がどういう生活をしたいか、そのためには何がどのくらい必要か、それを決められたら、出てくるのが”余裕”だと思うのです。

酒井:”余裕“がないと料理はできない……。

青江:これまでの時代は「もっともっと」の社会なんです。僕が小学校6年のころは、陸上の100m走では、10秒を切るか切らないかが大きな話題でしたが、今や10秒を切らないとオリンピックに出られないですよね。今度は9秒、次の世代には8秒を切るのか? これは人類の進歩という点で素晴らしいことです。でも、一方で「いつまでこれをやるの?」という話なんです。一方で同じオリンピックの競技でも、アーチェリーは真ん中がいちばん高得点の10点です。これからの世の中って、どちらかというとアーチェリー的な発想が必要なんじゃないかなと思うんです。つまり、人と速さを比較するのではない目安の立て方。「自分にとっての10点を決めるのが今、これから必要とされるのではないかと思います。

前田:なるほど。

青江:「あなたはどのくらい食べる量が必要ですか。使うお金が必要ですか」。それは人によっていろいろあると思うんです。「もっともっと」と欲張る気持ちは、仏教的に“修羅道”というんです。六道輪廻(りくどうりんね)という言葉があります。人間、死んだ後は地獄、餓鬼、修羅、畜生、人間、天という6つの世界に生まれ変わるという話です。その中の修羅道というのは、現代、われわれがいちばん陥りやすい世界です。もちろん、もっともっとと求める気持ち、つまり欲が悪いものでしかないと言い切ることはできません。適度な欲は、人間的で暮らしやすい社会生活の維持に必要なものでもあります。ただ、あくまでも「適度に」ということが大事です。たとえば、「もっともっと」と仕事をして、契約が取れた。よかった。そうしたら「もっとがんばれ、もっとがんばって、もっと契約を取れ」となって、ブラック企業のできあがりですよ。「どこまでやるの?」と際限がなくなって、ブラック化するわけです。

酒井:確かにそうですね。

青江:それに対して「目標はここ」と。「われわれはここを目指す」でいいんだと。アーチェリー的な発想で、的の真ん中の狙い通りのところにいったらOKというような価値観を持ったほうが、よほど余裕が出てくると思うんです。

酒井:「私はこれで足りる」とグッと絞り込んでいく。そうすることによって余裕が生まれるということですか。

青江:余裕ができて“アソビ”が生まれれば、それだけ幸せになっていく。人にはそれぞれ、持って生まれた器があります。時間にも、健康にもお金にも限りがある。その中で「自分の目標はここ」「自分はこれで足りる」というものが定まっていれば、持って生まれた器に空き容量を作り出せる。それが余裕、“アソビ”なんだと思います。たとえば、料理をするにも余裕が必要なんだと感じることがあります。煮物なんか火をつけて「はい、あと20分待ちます」とか、僕もレシピ本に書いていますけど、20分ってまあまあありますよね。待ち時間ってすごくおもしろいなあと思っていて、待ち時間を平然と言っていいのはレシピ本だけなんですよ。

前田:「一晩寝かす」とか。

酒井:今日は食べられない、みたいな(笑)。

青江:料理にも時短が求められるこの頃ですけど、時にはそういう「何もしないでただ待つ時間」を持つのもいいものだと思うのです。それだって、結局余裕がないとできないことです。そういう「待ち時間」の感覚を、料理だけじゃなくて、仕事や、私生活でも意識的に取り入れるようにすれば、ふとしたタイミングで心の凝りがほぐれたり、何かいいひらめきが生まれたりするかもしれないな、と思うんです。

食べることは”より良く生きるため“想像力”を働かせる訓練

酒井:仏教においては、食べるということはどういう意味をもっているんでしょうか?

青江:それこそ宗派によってとらえ方はさまざまですが、すべての宗派で「食前の言葉」を使うんですね。食前の言葉って今は「いただきます」と言いますよね。この「いただきます」は言葉としては古いのですが、一般の暮らしに定着したのは、実は昭和20年代、戦後に学校給食が再開したときからなんです。

酒井:そんなに新しいんですか。

青江:「いただきます」がそんな新しいものであれば、もっと古いものは何かと。それはお寺にあるんです。『四分律行事鈔(しぶんりつぎょうじしょう)』※というお経が唐の時代、日本にやってきました。鑑真和上とか、そのくらいの時代ですね。四分律行事鈔の「律」というのは法律の律なので、ルールという意味です。だからお経というよりも、ルールブックみたいなものです。この中に食前にはこれを唱えなさいというのが五行書いてあります。

前田:お願いします。

青江:その1行目は「計功多少量彼来処」と書いてあるのですが「目の前の食べ物がいったいどこからやってきたのかを、よくよく考えなさい」ということなんです。たとえば、パン。パンはどこからやってきて、どうやってこの食卓にのぼったのか。原材料は小麦、小麦は農家で作る、土、水、太陽など自然の力も必要だ、小麦を小麦粉にしないといけない。そのためには工場での労働が必要、そして、それをパンにする。そのあいだに輸送が必要ですよね。トラックが必要、トラックの運転手さんが必要、道路が必要。信号機が必要、信号を管理する人が必要になってくる。というように、パンのことを考えただけなのに、信号機を管理する人がいないと、われわれはパンを食べられないことがわかる。じゃあ、この食べ物の背景には、いったいどれだけの人がいるのでしょう? 想像してみましょう、と。どれだけの膨大な人の働きや自然の恵みがあるんだろう。想像した一つ一つのものに対して感謝を持つ。目の前の食べ物がどこからやってきたのか考えましょう、というのは、すごく深くないですか?

前田:すごいですね。

青江:まだこれ1行目です。これを一つ一つ丁寧に考えていく。考えていくと、今まで何気なく食べていたパンを全然違う印象で食べることができるんです。そうすると、美味しい、美味しくないというベクトルだけじゃなくて、ありがたいとか、尊いみたいな感情が入ってくる。いろいろなベクトルが増えると、食べることが楽しみにもなりますよね。

酒井:ベクトルがすごく増えていきますね。1行目から。

青江:そういうのが5行ある。こういうことを考えながら食べていくことによって、価値観がどんどん刺激されていくし、それによって、食べるときの自分の感性も変わっていく。仏教において食べることというのは、そういった食前の言葉にもあるように、想像力を働かせることだと思っています。想像力が働くから「ありがたい」と思えるし、そのうえで「いただきます」という言葉が響いてくるわけですよね。

※『四分律行事鈔』
一、計功多少量彼来処  食べ物が供されるまでの、人々の思いやいのちに目を向ける
二、忖己徳行全缺多減  食べ物を受ける資格が自分にあるのかを問う
三、防心顕過不過三毒  貪りの心をはなれ、慎みの心を起こそうと思う
四、正事良薬取済形苦  食べ物が自分の体を作るものであることを感じる
五、為成道業世報非意  仏道を歩むための食べ物であることを感じる→生きるためのもの
であることを感じる(五、は青江さんの解釈による)

目の前の食べ物は明日の自分自身、と思って食べる

酒井:想像力の話になったので「暗闇ごはん」のこともすごく納得できます。

青江:知らない方にご紹介すると、うちのお寺では「暗闇ごはん」という、薄暗闇の中でアイマスクをした状態で食事をとるという体験の企画をやっています。どうして始めたのかというと、忙しい現代人に、ごはんと向き合ってもらいたかったからです。

例えば、スマホ見ながらごはん食べるのはお行儀が悪い、と叱られたりしますが、それはまだその行為が自覚できる問題だから、それほど深刻な問題じゃないと思います。本当の問題は、現代人がその忙しさのゆえに、自分でも気づきにくい落とし穴を抱えていること。たとえば、朝ごはんを食べているときに「今日は9時に出社しなきゃいけない。10時からの会議の資料ができていないから、ちょっと早めに行ってやらなきゃいけない」なんて、多くの場合考えているんです。すると、気持ちが目の前のごはんに向き合っていないですよね。これはスマホを見ている場合と違って自覚できないし、他の人にも指摘されない。まさに落とし穴です。だって、目の前の食べ物って、明日の自分の体を作るものなんです。明日の自分自身なんですよ。それなのに、それと向き合いもせず、身体の中に取り入れているんですから。

前田:食べ物と一体なんですね。

青江:食べ物と私という別個の存在じゃないんです。これは私なんです、というつもりでちゃんと食べないといけないと僕は思うんです。視覚を遮断して食べると何が起こるかと言うと、まず、怖いんですよね。何を食べているかわからない。好きなものか嫌いなものかもわからない。もしかしたら食べてはいけないものかもしれない。だから、一生懸命に味わう。目の前のことに集中することが、食事でできてくると、目の前の人にちゃんと意識を向けてお話しをしていこうとか、家族にちゃんと意識を向けていこうとか、そういったところにもつながっていくんですね。禅語で「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」という言葉があるんです。これはお茶を飲むときはお茶を飲みなさい、飯を食べるときは飯を食べなさいと。当たり前のことなんですけれど、われわれついついごはんを食べているときに時間を気にしたり、他のことを考える。それではいけないよ、という話なんです。

前田:食べ物と向き合うことによって、家族にも向き合うようになったりするということが、それこそよく生きるには重要なことですよね。

青江:そうです。そのためにはちゃんと人や物事に向き合うクセをつけないといけない。食事って1日3回とるじゃないですか。さすがに1日3回やれば憶えるんですよ、体が。ルーティーン化して体が憶えていくことによってできていくようになる。それでも時間がなくて、ワーッとかきこむときもあるでしょう。それでも、食事の度にそういうことに意識を向けるように習慣づけていけば、自ずと身についてくるのではないでしょうか。誰もが1日3回、それを毎日くり返すものですから。

以下、青江さんがみなさんのご質問にお答えします。

Q:このところ気力が低下しているのですが、青江さんがちょっと泣きたいときとかに作る料理って何ですか? あと、へこんでいる人に対して作ってあげたい料理って何ですか?

青江:これはもう僕は一択でおかゆです。なぜならば、へこんでいるときは料理なんかしたくないので、いちばんラクなのがおかゆだったりします。フードプロセッサーで米粉を作っておくと、お湯を入れて米粉を入れて、フタして3分でおかゆができます。

一同:なるほど。

青江:やっぱりつらいときとか泣きたいときってどうしてもあるんですよね。そういうときは、それを無理に何とかしようとしないことが大事だと思うんです。だって、泣きたいんだから、泣くしかないんです。おなかがすいたら食べるじゃないですか。泣きたいんだったら泣けばいいんですよ。で、泣きたいとき、泣いた後に食べるのがおかゆ。日本人って調子が悪いとおかゆにするじゃないですか。実際に、どういう仕組みでおかゆが体を整えるかどうか、栄養学的なことは僕はわかりません。ただ、おかゆは昔から「具合が悪い時に食べるし、体を整えるものだ」という“印象”があるというのが大事だと思うんです。だから、おかゆを食べると「ああ、今、調子が悪いんだな。じゃあ、おとなしくしていよう」とか「寝ていよう」とか、そういうふうに回復に向かう次のステップにいけるんですね。今は心身を休めようというところに自分を持っていくのがいちばん大事だと思います。

酒井:気力が低下しているからスタミナをつけようというのではなく、その状態に合ったものを食べながら整えていく。

青江:そうですね。あとは「そういう状態なんだとちゃんと自覚する」ことです。おかゆを食べれば、自分は調子が悪いんだと自ずと自覚できてくるので。おかゆでなくても、自分にとって弱ったときに食べるものだというイメージがあるものを食べて、今の自分に立ち戻ってもらうのが大事かなと。その代表的なものとしての表現がおかゆなんです。

Q:自分に対しても、家族など身近な相手に対しても、つい「もっともっと」になりがちですが、おさえるコツ、冷静になるコツはありますか?

青江:まず、自分に対しての「もっともっと」と、家族や身近な人に対しての「もっともっと」は分けて考えたほうがいいですね。
そもそも、「もっともっと」という気持ちは誰でもみんな持っているものです。みんな悩んでいる。欲、仏教的に言えば煩悩。煩悩は108つあるなんて言われますけど、その数と同じ回数鐘を叩いて煩悩を消しましょうという風習があるくらい、みんなたくさんの煩悩を抱えて、どうにかしてそれを乗り越えたい、解消したいと思って苦しんでいる。
でも、どこまでいっても「こればっかりはしょうがない」という、どうしても「もっともっと」をがまんできないポイントが人それぞれあると思うんです。
まずは、自分はどういうところに「もっともっと」という気持ちが出てくるんだろうと自問して「自分の欲のポイント」を知ることが大事です。次に、その気持ちとどう向き合ったんだろう、と、もう1回、考えてみる。「こうすべき、ああしなきゃいけない」はとりあえず置いておいていい。「自分自身はこういうところに欲を感じて、こういう感じでその欲とつき合っているんだ」と気づくことが大事なんです。
たとえば、欲しいものをすぐに買ってしまうのかもしれないし、お腹いっぱいなのに、ついつい食べすぎてしまうのかもしれない。そういう、自分の欲のポイントを知ること。そして、自覚することができれば、ほとんど解決したも同然なんです。自分自身で「これはマズイな」と思えば、どこかで自制がきくわけですから。それでも自制のたがが外れることもあるでしょう。そのときは、もう自分はそういう人間なんだと受け入れるしかない。受け入れながら、でもできるかぎり自制しよう、努めようとするしかないんです。要は、「気づいたうえで、気にしすぎない」というところに持っていけるかどうか。最終的には「わかっちゃいるけどできないのが人間なんだ」というところまで落とし込めたらいいですよね。「欲は悪だ」「絶対に煩悩を消し去ろう」だなんてハードルが高すぎて、「自分ってなんてダメな人間なんだ」と自分を責めて終わってしまいます。どうしたって、人間は誰でもたくさんの煩悩を抱えているんですから。お釈迦さんも悩んでいたくらいです。悩んで悩んで、その末に生まれたのが仏教です。二千年前の偉い人も悩んでいたんだから、われわれが悩んでもしまうのもしょうがないよね、というところに自分を持っていくしかないと僕は思っています。

一方で、家族や身近な人に対して思う「もっともっと」は、それとは違うところにポイントがあります。それは、自分とその人とは違う人間なんだと知ることです。
そう言うと、そんなの当たり前じゃないかと思うかもしれません。でも、例えば赤の他人に言われてもなんとも思わないことなのに、身近な人に言われると腹が立ってしまうだとか、たまにしか会わない人がしていても「あーあ」で済ませられる行動が、家族がしたと思うと許せないと思ってしまうことってあるじゃないですか。
それは、自分とその人との距離が近すぎて、自分とその人との境界が曖昧になっているから起きることです。どんなに親しくても、どんなに長い時間一緒に過ごしていても、自分は自分、人は人なんです。誰にも自分なりの「欲のポイント」があって、これは良くないな、少しがまんしなきゃな、でもがまんて大変だな、面倒くさいな、それでもより良くなるためにがんばりたいな、がんばれるかな、と悩んで、迷って、奮起して、それでも甘えが出て、また悩んで、と常に繰り返しながら生きている。相手もそうです。自分とは違うポイントで、悩んだり苦しんだり、もちろん自分を甘やかしたり、そうやってもがきながらなんとか折り合いをつけて日々を生きています。その心の内側を知ることはできませんが、相手も相手なりの思いがあっての言葉なり行動なのだと、一歩引いて付き合うことが大事です。それができれば、不用意に腹を立てたり、過度に落ち込んだりすることも減ってくるはずです。
自分の「欲のポイント」を知ること、そして相手も相手なりの「欲のポイント」を持つ、違う人間なんだと知ること。
これが「もっともっと」と欲が湧いたときに、冷静になれるコツだと思いますよ。


青江覚峰 (あおえ・かくほう)さん
1977年東京生まれ。浄土真宗東本願寺派 湯島山緑泉寺住職。米国カリフォルニア州立大学にてMBA取得。料理僧として料理、食育に取り組む。ブラインドレストラン「暗闇ごはん」代表。超宗派の僧侶によるウェブサイト「彼岸寺」創設メンバー。ユニット「料理僧三人衆」の一人として講演会「ダライ・ラマ法王と若手宗教者100人の対話」などで料理をふるまう。著書に『お寺ごはん』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『ほとけごはん』(中公新書ラクレ)、『お寺のおいしい精進ごはん』(宝島社)など。
Twitter @Kakuhoaoe