経済目線で考える なぜ今ウェルビーイングなのか?

文/星野卓也(ほしの たくや)
第一生命経済研究所 主任エコノミスト
専門分野はマクロ経済、経済政策の分析・予測
イラスト/ながお ひろすけ


近年、ウェルビーイングという言葉が広く社会に浸透してきています。図表は検索サイトのGoogleにおける「ウェルビーイング/well-being」という言葉の検索数の推移(100を最大値として指数化したもの)を示しています。ここ数年で検索数は飛躍的に増加しており、国内外で関心が高まっていることがわかります。

GDPが見落とすウェルビーイング要素

なぜウェルビーイングという言葉が広まっているのでしょうか。その背景としては、「経済成長で測れない」問題に対する社会的関心が高まっていることが挙げられます。一国の経済規模を表す指標として世界的に広く用いられているものが、GDP(Gross Domestic Product:国内総生産)です。ニュースなどで、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。GDPは様々な経済活動を通じて、その国で1年間に生み出された価値の総額を示します。生み出された価値が増えればその国の所得も増え、使えるお金の額も増えて豊かな暮らしができることになります。多くの国の経済政策はこのGDPを大きくすること(これを経済成長と呼びます)を主な目的としている、といっても良いでしょう。

ただし、このGDPには、測ることのできない要素が数多くあります。その代表的なものの一つが「気候変動のリスクです。例えば森林を伐採して高層ビルを建てると、生み出された高層ビルは付加価値としてGDPに計上されますが、失われた森林はマイナスの要素にはなりません。また、CO2をはじめとした温室効果ガスをいくら排出しようとも、それはGDPに影響することはありません。GDPは経済の豊かさを示すことができ、さらに国と国との間で一国の経済力を比較することもできるとても便利な数字です。しかし、それだけをすべての国が追求すると環境面でのコストが軽視され、人々の暮らし、すなわちウェルビーイングが脅かされるリスクがあるのです。

こうした問題もあり、各国が集まって温室効果ガスの排出量を減らす目標を立てる、といった方法も取られていますが、経済成長の余地がある新興国はこれに後ろ向きな傾向があります。また、国内では森林資源などの減少を「地球の持つ資産が減少した」ものとして扱ってGDPから差し引く数値、「グリーンGDP」を作成する、といった動きもあります。ただ、森林資源の価値を正確に計算できるのかなど、難しい課題も多く、広く用いられるレベルには至っていないのが現状です。

もう一つが「分配」です。格差と言い換えてもいいでしょう。GDPは一国全体でどれほどの生産能力を有するか、を計測する指標ですが、一人ひとりの経済状況にフォーカスしたものではありません。「100万円の所得を得た人が1万人いる経済」と「100億円の所得を得た人が1人、所得ゼロの人が99人いる経済」のGDPはいずれも100億円です。GDPをみても、その国の中にある格差はわかりません。

世界的に格差がもたらす課題は顕著になってきています。例えば、世界第一位のGDPを誇るアメリカは、グローバル化というトレンドを追い風に、世界的に有名なIT企業を数多く生み出してきました。これはGDPの増加にも貢献したわけですが、一方で一部の企業に富を集中させることにもなりました。アメリカの連邦予算局(CBO:Congressional Budget Office)が2022年に公表したレポートによれば、富を多く持つ上位10%の世帯だけで、アメリカ全体の富の72%を保有しているとしています。一方で、下位50%は全体の2%しか保有していないことも示しました。この格差は拡大する方向にあるとしています。

格差が深刻になると社会の分断が起こります。象徴的な出来事は2016年の大統領選挙におけるトランプ前大統領の勝利でしょう。グローバル化を通じて多くの富を得たアメリカにおいて、反グローバル化を掲げたトランプ氏が勝利したことは、経済成長の恩恵がごく一部の上位層にしか行き渡っていないことを如実に示しました。その後もヨーロッパなど各国で極端な政策を掲げる政党が支持を集めるようになりました。一国全体の経済成長に焦点を当てすぎると、一人ひとりの状況が軽視され格差の問題が大きくなり、社会全体の不安定化につながる―ということが実際の出来事を通じて示されてきたのです。

人手不足がウェルビーイングブームに火をつけた?

ウェルビーイングへの関心が高まった背景に「人手不足」があります。近年日本国内でも人手不足で職場が回らない、人手不足でお店が開けない、といった具合で人手不足の問題がしばしばニュースに上るようになっています。少子高齢化の中で特に若い人の人口が減っているので、力仕事や従来学生アルバイトが担ってきたサービス業の現場の仕事などで働く人が足りなくなっています。

なぜ、人手不足がウェルビーイングへの関心を高めることになるのでしょうか。それは人手不足の経済環境の中では、企業がより「良い待遇」で働く人を集める必要が生じるからです。労働市場に多くの失業者がいて、その人たちが仕事を欲しがっている状況であれば、企業は多少悪い待遇であっても雇用することができます。しかし、人が足りなくなり、企業が人を取り合う状況になれば、企業は賃金を上げたり、福利厚生を充実させたり、働きやすさを向上させたりすることで、労働者に魅力的な環境を作る必要があります。労働者にとって魅力的な環境とは何か、ということを企業が積極的に学び、それを実際に取り入れていく必要に迫られていることがウェルビーイングという言葉が注目されるようになった大きな要因であると考えられます。

こう考えると、人手不足、という状態はその語感や報道のようにネガティブな側面だけではないことがわかります。むしろ日本は90年代はじめのバブル崩壊以降、景気回復は芳しくなく、人余りの状態が長引きました。今でこそ徐々に是正が図られていますが、この間、長時間労働の蔓延や過労死が社会問題になるなど、日本の労働環境は決して良いものとは言えなかったでしょう。人余り状態の中では、企業側にとって働く人のウェルビーイングを重視する必要性は特に大きくはなかったのです。また、日本の場合は多くの企業が終身雇用を主流としているため、中途採用をあまり行っていませんでした。なので、労働環境の悪い企業から良い企業へ転職する、ということも多くの人にとっては難しかったのです。足元の人手不足は企業の中途採用の必要性を高めることで、転職機会の増加にもつながっています。

海外に目を移すと、コロナ禍もウェルビーイングの潮流を作ったひとつのきっかけといえます。アメリカでは”the Great Resignation”(大退職時代)、といった現象に注目が集まりました。コロナ後に自ら仕事を辞める人の数が過去最高水準になったことなどを受けて流行した言葉です。一つの背景として挙げられているものがリモートワークの広がりで、その快適さを経験したことでコロナ感染収束後も働き方の柔軟性が高い企業へ転職する動きがみられています。

また、”Quiet Quitting”(静かなる退職)という言葉にも最近注目が集まっています。これは本当に退職することを指すのではなく、仕事は最低限にとどめ、必要以上に一生懸命働くことをやめることを指します。人生は仕事だけではない、というメッセージは若い世代を中心に共感を得ています。働く人たちの価値観が変化する中で、企業側も従業員のウェルビーイングを高める施策を通じて、モチベーションを高める、離職を防ぐことが必要になっているのです。

今年は主要先進国会議(G7)の議長国を日本が務め、5月には首脳が集うサミットも広島で行われます。G7の財務トラックではマクロ経済政策などについて議論が交わされますが、ここではウェルビーイングをはじめとした多様な価値を踏まえた経済政策の高度化が優先事項のひとつとして議論されることとなっています。
世界・国内の置かれている状況を見ても、国や企業がウェルビーイングを重視する風潮は、今後も続くのではないかと考えられます。

参考文献
Congressional Budget Office (2022) “Trends in the Distribution of Family Wealth, 1989 to 2019”
https://www.cbo.gov/publication/57598