第七回 人と人を人情と誠意でつなぐカレーの美味しい喫茶の店「壁と卵」(東京・幡ヶ谷)

文/麻生要一郎
撮影/小島沙緒理


「喫茶 壁と卵」は、人情に溢れたお店だと、僕は思う。

高齢である養親の姉が、股関節を骨折して入院した時、急な環境の変化でせん妄状態が酷く、5分に1回くらい僕の携帯に電話がかかってきた。電話を切って、ひと呼吸すると、またすぐにかかってくる、「あなたが拾ってきた猫ちゃん100匹は、今どうしているの?」とか、何を言っているかよく分からない……。そんな状態が1ヶ月以上続いて、精神的に追い込まれている時があった。

「壁と卵」は、自宅と入院先の丁度真ん中。面会が出来ない状況の中で、届け物をしたりするだけでも、医師からの相談とか、看護師さんに呼び止められたり、病院へ行く事は結構なエネルギーを使うもの。行く度に、すっかりエネルギーを消耗してヘロヘロになって、帰り道に吸い込まれるように「壁と卵」へ寄り道。ご夫婦に励まされながら、美味しいコーヒーを飲んで気分転換、食べると元気になるカレー、優しい味のおやつを食べて力をもらっていた。

もう介護の事だけで精一杯…そんな時に、僕の著書をお店で販売したいと申し出て下さり、たくさんのお客様に僕の事を紹介してくれた。自分達の大切な友人、お客様に丁寧に伝えてくれた事が、どれだけ励みになった事か。静かに水の中へ沈んでいくように、塞ぎ込んでいた気持ちが、前向きになって、自分の人生を歩まなくちゃと本来の自分に戻る事が出来た。長い人生には楽しい時ばかりではなく苦難がつきもの、いつも楽しそうですねと言われる僕でさえ、そういう苦難は突然訪れる。そんな時、ちょっとあそこに行って息抜きしよう、そう思える場所があるだけで、案外持ち堪えられるものなのだ。

お店を訪ねたきっかけは、カレーを作っているご主人が、僕のパートナーが営むHADEN BOOKS: のお客様だったのが、そもそものご縁。スパイシーなインド料理を、そんなに食べに出かけない僕たちも、ここのカレーの大ファン。パートナーと出かけると、2人で3種類のカレーを食べる。ごはんに添えられたアチャールも、爽やかな風味で美味しい。カレーもしっかりスパイスが効いて、軽やか。大概のインド料理屋へ出かけると、僕は胃がもたれしてしまうのだが、「壁と卵」のカレーは、しっかりとした満足感を得ながらするすると胃の中に入って、もたれる事もない。一皿の中に盛り付けられた、カレーとごはん、数種のアチャールとパクチー、パパドを混ぜながら食べれば、味や食感の変化も付けられて楽しい。

奥様が手がける、プリンやケーキ、クッキー(新とんがり焼き)も美味しい。優しいけれど、しっかりとした味わいと輪郭のあるお菓子に、作り手の人柄が現れている。東京には、美味しいケーキやお菓子屋さんが無数にあるけれど、「壁と卵」のお菓子は八方美人な味ではなく、しっかり食べ手の方をむいてくれているような奥深さがあると僕は思う。そう書いてしまうと、「麻生さんはお友達だから」と思われるかも知れないが、そうではない。きっと初めて訪れる方も、そう感じる温かさがあるのだ。

スケッチブックに書かれたメニューも、毎日手書きをされている。ついつい、昨日の、一昨日の、ずっと遡って見てしまう。僕も、お店を切り盛りしていた時代があったけれど、日々メニューを書くと言うのは、並大抵の事ではない。しかも、文字だけではなく、可愛いイラストまで描くのだから。手書きのメニューは、今日はどのカレーにしようか、どのお菓子にしようかと選ぶ楽しさもあり、そして何より優しい気持ちになる。いつかメニューブックを一冊の本にまとめて欲しいと、密かに思っている。

本やレコード、色々な置物、食器に至るまで、店内には、ご夫婦の好きなものに溢れている。今日も本の間にいた、他人とは思えない佇まいのパディントンと目が合った。

壁に大きく飾られた西脇一弘さんの絵を眺めていると、とても懐かしい気持ちになる。パートナーの移転前のお店に、大きな西脇さんの絵が2枚、象徴的に飾られていた。その絵の前で、僕達は出会ったから、縁を引き寄せる絵だと僕は思っている。

当時、僕はまだ時間を持て余していて、パートナーのお店で、西脇さんの絵を眺めながら、希望と不安を抱えコーヒーを飲んでいた。だから、彼の描く絵には愛着がある。ここに飾られているのは、西脇さんが「壁と卵」の為に描いた作品。いつも様々なお客様が訪れるお店の様子を眺めていると、この絵がご夫婦の営みにそっと力を寄せてくれているような気がする。

撮影の日に、窓際に飾られていたお花も、共通の友人「THE DAFFODILS」の加藤君が、前日に生けてくれたとか。愛らしいネコヤナギは、チョビ(僕の愛猫)に見立てたとの粋な演出。しかし、そういった事の数々は、何も僕が友達だからと言うのではない、誰に対しても、誠実に真摯にこのお店は向き合ってくれる、それは店名に込められている思いからも分かるであろう、だって「壁と卵」*だから。

皆さんも是非、ひと息つきにお出かけ下さい。

*「壁と卵(Always On The Side Of Egg)」……作家/村上春樹がエルサレムの文学賞「エルサレム賞」の授賞式で2009年2月15日に行ったスピーチで語られた言葉。「壁」は、戦争、または個人を取りまくシステム、そして「卵」は戦争やシステムにともすると押しつぶされる個人または個人の魂の比喩。村上春樹はこの中で“もしここに大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。”と語った。


喫茶 壁と卵

現在の場所での営業は2021年5月から。ご夫妻の結婚も3年前とのこと。音楽が好きでレコード会社に勤務したご主人雄基さんは、カレーを中目黒「RED BOOK」などで学び、さらに独学で自分の味を作り上げ、奥様の香代子さんは代官山「イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ」でフランス菓子を学び、店長として活躍し、教室の運営にも携わった。そんな二人がまるで前から同じ糸の両端を握っていたかのように出会って結婚し、店を開いたら、本格カレーとコーヒー、お菓子の美味しい喫茶店「壁と卵」ができた。
店に入ると出てくる水も、寒い時には程よい温度の白湯で、夏でも希望する人には白湯を出してくれる、というやさしさ。夫妻の仕事ぶりはとても丁寧で心がこもっていて、毎日描くメニュー、お客様への説明、料理、お菓子作り、コーヒーの選び方、淹れ方、それらすべてに、“惜しまない心”がある。「どんなに忙しい人にも”喫茶の時間“は必要だと思って」、ご主人選曲のSpotify)も公開、「子育てや介護、病気など様々な事情で外になかなか出かけられない方にも、少しでも”壁と卵”で過ごすような時間」を愉しんでもらいたいそう。
雄基さん、香代子さん共に村上春樹の愛読者で、店の名前も村上春樹の有名なスピーチから採られている。名物クッキー「新とんがり焼き」も村上春樹の短編から。
友部雄基さんのSpotifyアカウント
https://open.spotify.com/user/yuki_tomobe?si=48772d5dea4b4c39

ポークビンダルー 1,200円  チキンカレー 1,100円 *カレーは季節のスペシャルメニューもあります。
コーヒー 550円~ チャイラテ 550円~
カベタマプリン 400円 ラムレーズンパウンドケーキ 350円 他 飲み物、お菓子もいろいろ。

住所:東京都渋谷区幡ヶ谷2-11-7 プエブロM 1F
営業時間:月曜日16:30~21:30(L.O.21:00)
木曜日、金曜日12:00~19:00(L.O.18:30)
土曜日、日曜日11:30~19:00(L.O.18:30)
     *19:00~22:00までは予約制で営業
定休日:火曜日、水曜日
     *イベント開催時など、営業時間や店休日が変動します。
Instagram @kabetotamago
Twitter @kissakabetama
で1週間ごとの営業スケジュールや、各種イベントなどのお報せを更新しています。


麻生要一郎(あそう よういちろう)
料理家、文筆家。家庭的な味わいのお弁当やケータリングが、他にはないおいしさと評判になり、日々の食事を記録したインスタグラムでも多くのフォロワーを獲得。料理家として活躍しながら自らの経験を綴ったエッセイとレシピの「僕の献立 本日もお疲れ様でした」、「僕のいたわり飯」(光文社)の2冊の著書を刊行。現在は雑誌やウェブサイトで連載も多数。今年新たな書籍も刊行予定。

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↓「料理とわたしのいい関係」麻生要一郎さん
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