第二回 毎日食べても飽きないうどん「うどん豊前房」(東京・池尻大橋)

文/麻生要一郎
撮影/小島沙緒理


家人は僕と出会う前、365日のうち360日が外食という生活をしていたそうだ。
西麻布、四谷、神楽坂、大人びた夜の街に惹かれて住んでいたのだから、それも頷ける。むしろ自然な成り行きで、きっと料理を生業にする僕でもそうなるだろうと思う。

馴染みの友人達は、僕と出会う事で360日とは言わないまでも、300日程を家で食事するようになった家人の食生活の変化について、飲み友達が減った寂しさ半分、良かったねえという思い半分で見ている様子。しかし、日々の食卓を維持するのは、なかなか大変な事である。今夜は何を作ろうかと、献立が全く思い付かず、空のカゴをのせたカートを押して食品売り場をぐるぐると回りながら、ふと思う。もし一人だったら、こんな苦労はあるまい。ごはんに味噌汁、お新香、干物か刺身、冷奴、寂しければ、焼き海苔か納豆を追加、僕は同じものを毎日食べても飽きないので、きっとその繰り返し。一通り現実逃避をすると「煩わしさも人生の喜びのうち」と誰かが言っていた、そう自分を取りなし、食材を選抜して家路を急ぐ。

しかし、本当に一人だったら? 忙しく仕事をこなして、自分の為の一人前の食事の支度を簡単とはいえするのだろうか、きっとかつての家人のように外食三昧になるのではないだろうか。そう考える時、僕には毎日通いたいと思っている店がある、それが「うどん豊前房」。毎日通いたいと思う店は、このお店の他に思い当たらない。

一つ付け加えておくが、飲食店を何度も開けたり閉めたりした経験のある身として、この「毎日通ってみたい」という表現は、非常に無責任な思いである事についてよく理解している。お店を開店する前に「毎日来ます」と言う人は、毎日来なくなるし、閉店する間際に「近かったら毎日来たのに」と言う人は、大概ほとんど来ていない人である。しかし何であれ、お店というのは、そういう誰かの思いに支えられている事も紛れもない事実である。

初めて豊前房の暖簾をくぐったのは、いつだったろうか。お店の存在を知ったのは、仲の良い友人の子供がまだ小さかった頃、美味しそうに親娘二人でうどんを食べている姿がInstagramにアップされていたのがきっかけ。店主のInstagram「うどん豊前房の若大将」から垣間見える、店主の佇まいや人柄にも惹かれた。当時、僕は養親の介護に忙しく、お昼の時間の自由もなく、気持ちとは裏腹になかなか訪れる事が出来ずにいた。ある時、お店の近くまでお昼時に行く用事が出来て、今日は豊前房へ行く! と心に決めて意気揚々と出かけた。暑い夏の日、カウンターに案内されて、初めて食べたのは「香味野菜のサラダうどん」だった。シャキッとしたクレソンとミョウガは、丁寧に扱われている事がよく分かる。お出汁のスッキリした味わいが、清涼で心身に染み渡った。若大将に話しかけようかとも思ったが、ランチ時の忙しい中、長居するのは野暮である、淡々と仕事をするその背中にエールを送って店を出た。

それから、頻繁にではないけれど、親しみを抱いて通っている。疲れたな、風邪ひきそうだなと感じる時には「京風しょうがうどん」がおすすめ。生姜の効いたお出汁、ピリリとしながらすっきりした味わいで、最後は丼を抱え全て飲み干す。食べ終わる時には、身体がポカポカとして、身体が芯から温まる。そして思わず「若大将、もう1杯!」と頼みたくなってしまう。

家人と二人で出かける時には、だし巻き玉子、みょうがときゅうりの梅冷菜などの一品料理を頼みながら一献、最後に僕はいつもの、家人はボリュームのあるお肉がのったうどんをよく食べている。自家製の杏仁豆腐や、手間をかけて作るアイスクリームも食後のお楽しみ。丁寧な仕事の分かる料理、真っ直ぐで誠実な人柄、安心して食事が出来るお店というのは、案外少ないものである。

日々、お客様の為に、出汁をとり、うどんを用意して、他にも色々な仕込みをして、店に立ち続けるというのは本当に大変な事だと思う。お店の味を守るという事は、日々の小さな努力の膨大な積み重ねである。比較する事ではないが、僕のように撮影の為の料理、たまのお弁当、ちょっと失敗しても美味しく食べてもらえる家庭の料理とは、緊張感が違う。
話は逸れるが、若大将は、ヤクルトスワローズの熱心なファン、我が家から近い神宮球場の前を通る度に彼の事を思い出す。そして、チームが優勝した時には、若大将おめでとうという気持ちになった。(その日、彼は一人でビールかけを楽しむ幸せそうな様子がInstagramに上がっていた)画家である奥様が描かれた、お店の近くにあるご自宅から望む街の景色の絵が、我が家のリビングに置かれたソファーの側に飾ってあり、和やかな空気を生み出す事に一役買っている。会わずとも、そして食べずとも、いつも豊前房の気配をそこかしこに感じる。

もし、自分が一人だったら、毎日この暖簾を潜りたい、カウンターの隅っこで、京風しょうがうどんか香味野菜のサラダうどん、どちらかを頼み、ちょっと小鉢を摘む。若大将は、僕が話したそうだったら、言葉をかけてくれるだろうし、静かに過ごしたそうだったら、そっと見守ってくれるだろう。お店が忙しそうな時には、邪魔にならない程度に黙って皿洗いでも手伝いたい。

そして、こうも思っている、人生には何があるか分からないから、もし僕に何かがあって、いつもの食卓が失われた時、家人が毎日ではないかも知れないけれど、日々通うお店が「うどん豊前房」だったら僕は安心する。それは悲しい気持ちで言っているわけではなく、若大将と僕の料理はどこか通じるものがあるのだ。このうどんは、毎日食べても飽きないはずだから。

すっかり恋文のようになりましたが、こう記しながら、もううどんが食べたくなっている。メニューを開けば、たくさんのメニューがあって、トッピングも色々出来るので、それぞれの好きな味を見つけて欲しい。寒くなって、年の瀬を感じる忙しい時期。今年は忘年会も、きっとたくさんあるでしょう。ちょっと疲れたな、風邪を引きそうだな、まあそんな理由じゃなくてもお腹がすいたら、是非足を運んで欲しい。暖簾を潜ると、若大将の作る美味しいうどんが待っていますから。

”若大将“店主の佐藤克明さんと。

うどん豊前房

麻生さんが最初に食べた「香味野菜のサラダうどん」。かかっているのは冷うどん専用の、きりりとエッジのきいたつゆ。思わずうなるおいしさ。

現店主の佐藤克明さんは22年前にこの店にアルバイトで入った人。以来長きにわたり勤めあげ、高齢となって引退した前店主から事業継承し、今に至る。うどんは選りすぐった岡山県の手延べうどん。包丁で切っていないから角がなく、適度なコシのある食感で、するするとのど越しが抜群。だしは、温かいうどんはいりこと昆布、冷たいものはかつおと昆布で少し強めにとるという念の入りよう。常連には「第二の台所」とこの店をよんで親子二代で通う客も多い。おだやかで滋味あふれる温かいつゆを飲み干すと「お風呂に入ったようだ」という人も。
京風生姜うどん 990円、香味野菜のサラダうどん 1,155円
一品料理は550円~

住所:東京都目黒区東山1-11-15
営業時間:11:45~14:30 18:00~21:00(売り切れ次第終了)
定休日:土曜日、日曜日(月曜日、祝日は昼のみ営業 来店時電話でお問い合わせください)
電話:03-3710-5425